2015年2月28日土曜日

貯金箱を割る日 19[一万尺] / 仮屋賢一



水仙や小さき白と生きること  一万尺

 十代目坂東三津五郎、俳号は一万尺。昨年のテレビドラマ『ルーズヴェルト・ゲーム』でお見かけしたのも最近のことに思えるし、2015年2月27日放送の『美の壺』(BSプレミアム)で放映されたインタビュー映像(2月7日収録)の様子を見ても信じられないくらいの早世である。ご冥福をお祈りする。

 この句は、優しい言葉で仕立てられていて、声に出せば心地よい調べに安らぎを感じる。ただ、その心地よさは母親のような包容力というよりも、どこか男性的な頼もしさゆえの安心のようなものを感じる。それは、選ばれた一つ一つの言葉が凛としていているだけでなく、作者が型の持つ力というものを誰よりも信じているその姿勢が伝わってくるように感じているからなのかもしれない。
 白い花を咲かせる水仙。それを写実的に表現したのがこの句だとして、「小さき白」という表現は非常に魅力的である。水仙の花だけを見ているわけでなく、群生する水仙を俯瞰的に見るわけでもなく、一本の水仙をそれ以上でもそれ以下でもない存在として尊厳を持って見ている。この句における「生きる」という措辞には聊か擬人的な響きがありながらも、俳句としての世界観が損なわれないのは、この尊厳を持った眼差しによるものだろう。

 この作品の横に作者の名前が並んだとき、そこにはさらなる世界の広がりがある。踊りの名手として、「楷書の芸」で人々を魅了した坂東三津五郎氏。曲線的な美しさと洗練され筋の通っているような姿を持ち合わせた水仙が、氏の姿とどことなく重なりあうよう。また、氏は雑誌の対談にてこう語っている。


女性の一年がいい役者を育てるという部分もあって…(中略)…女性の執念、一念は一人の役者を育てるような気がいたしますね。
(角川『俳句』2014年12月号)
決して歌舞伎の表舞台には立たない女性の存在。小さいながらも確かな存在感を持つ「小さき白」。どこか重なりあうような、そうでないような。絶対的な確証はないのだが、少なくとも、「小さき白」は、この作品の中で逆説的に大きな存在となっていることは確か。水仙に見えるのは、歌舞伎の精神世界そのものなのだ。


《出典:2015年2月24日朝日新聞朝刊『天声人語』》