2015年7月1日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 16 [川端茅舎]/ 依光陽子




伽羅蕗の滅法辛き御寺かな  川端茅舎


句意は読んで字の如し。この寺は、出してくれる伽羅蕗がとんでもなく辛い寺なのだよ、ということ。

ではこの句、どこが面白いか。それは文字である。
「伽羅」「滅法」「御寺」どれも仏教に因んだ言葉だ。

香木である沈香の中で最も質の良いものが伽羅。インドでは仏を供養する荘厳のために香を焚き、身体に香粉を塗った。さらに出家者の戒律を定めた『四分律』にも、身体に塗る薬剤の一つとして伽羅があり、高級な線香の材料にもなる。東大寺正倉院に収蔵されている蘭奢待(らじゃだい)も伽羅だ。煮つけると黒く伽羅色になるところから伽羅蕗という言葉は来ている。

滅法はそもそも、因果関係に支配される世界を超越して、絶対に生滅変化することのないもの、真如や涅槃のことである。滅法界はこの世のものではない所。よって滅法とは、この世のものとは思われないほどという意味になる。

これだけの言葉が盛られれば普通なら相当抹香臭くなるところ。だが茅舎の天才を以ってすれば、この仰々しさも俳諧味と言えよう。

川端茅舎は明治30年生まれ。医師を目指していたが受験に失敗。志望を変更して洋画家を志し、武者小路実篤の「新しき村」の会員となり、その縁で岸田劉生に師事。異母兄に日本画家の川端龍子がいる。句作は18歳の頃から。画業の気分転換として始めた。朝日文庫の『現代俳句の世界・川端茅舎集』の三橋敏雄の解説によると〝茅舎〟の号は、姓〝川端〟と合わせて、旧約聖書のモーセがイスラエルの人々の祖先が曠野にさまよった〝遊牧の民〟の生活を記念するために、ヨルダン川のほとりに「結茅節(かりほずまいのいはい)」を定めたことに基づくそうである。

大正4年「ホトトギス」初入選。画業に専念しつつ「渋柿」「雲母」などにも投句していた。関東大震災後、京都東福寺の正覚院に寄宿。昭和5年頃より病がちとなり、画業から遠ざかった。同年「ホトトギス」巻頭を占めたことをきっかけに「ホトトギス」一本に投句を絞る。居は池上本門寺裏の青露庵。茅舎は脊椎カリエス、結核性の病に侵されながら珠玉の作品を数々遺し、昭和16年、44歳で鬼籍に入った。戒名は青露院茅舎居士。露を好み、露の名句を数々遺したことから、露の茅舎と呼ばれた。

露の茅舎も、『川端茅舎句集』の夏の露の句としては<迎火や露の草葉に燃え移り>の一句を認めるのみである。茅舎の句は最晩年へ向かうほど凄みを増してくるのだが、まだ第一句集であるこの句集では清新に登場した新人という趣である。

中学生で聖書を精読、キリスト教の影響を受けながら、仏教に近くいた茅舎の句群には、双方の要素が混在している。これも特徴の一つ。掲句の他にも<金輪際わりこむ婆や迎鐘>など、仏教用語を飄逸に使用した句も散見され、茅舎の本来的な茶目っ気を垣間見ることができる。

以上を踏まえた上で、再び掲句に戻ろう。この寺の伽羅蕗の桁外れの辛さは不変不動、この世のものとも思えないほど辛いと言うのである。有無を言わせぬ辛さのである。未来永劫絶対に変わらぬ辛さなのである。なんともとんでもない御寺に茅舎は厄介になってしまったものだ。一言でも辛いと口に出そうものなら「辛いと思うから辛いのじゃ」という御僧の喝が飛んできそうな、実に味わい深い一句である。


金剛の露ひとつぶや石の上
露の玉蟻たぢたぢとなりにけり
新涼や白きてのひらあしのうら
御空より発止と鵙や菊日和
蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ
放屁虫かなしき刹那々々かな
芋腹をたたいて歓喜童子かな
舷のごとくに濡れし芭蕉かな
しぐるるや目鼻もわかず火吹竹
一枚の餅のごとくに雪残る
眉描いて来し白犬や仏生会
蛙の目越えて漣又さざなみ
蟻地獄見て光陰をすごしけり

(『川端茅舎句集』昭和9年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)