かんがへのまとまらぬゆゑ雪をまつ 森澄雄
僕がかんがえている。いったいなにをかんがえているのか。なにをかんがえるべきなのだろうか。
そもそも、なにをかんがえていたんだっけ。かんがえるということは、しばしば、かんがえるということをかんがえさせてしまう。そうしているうちに、かんがえはふかまっていくようであるし、輪をえがいてどうどうめぐりしているような気もするし、宇宙のかなたにとんでいってしまうみたいでおそろしくもなる。かんがえは僕を勇気づけてくれるが、僕を傷つけるときもある。そんなときは、せめてかんがえないようにすることをかんがえる。消しては書き、消しては、書き、そうやってふえていった消しかすのかたまりがほんとうの「かんがえ」なんじゃないかなあってかんがえたりするのです。
僕はなにをかんがえていたのでしょうか。なにかをかんがえていたのです。いつになったら、かんがえはまとまってゆくのでしょうか。雪がふるまで、かんがえているのです。あなたいま、雪のことをかんがえたでしょう?
(『雪櫟』昭和二十九年・書肆ユリイカ刊所収)