2015年7月15日水曜日

 目はまるで手のように言葉に触れる 17 [山口誓子]/ 依光陽子




汗ばみて少年みだりなることを  山口誓子


誓子の冷徹な眼差しの捉えた肉体は、生ぬるい情感を受け付けない。人間の本質を突きながら、物体としての肉感が生々しく、時に揶揄を含み、エロティックでありグロテスクだ。

句集『黄旗』の中でざっと拾ってみると

北風強く水夫の口より声攫ふ 
纏足のゆらゆらと来つつある枯野 
ストーヴや処女の腰に大き掌を 
さむき日も臚頂見え透く冠を 
侯は冬の膚うつくしく籠ります 
しづかに歩める風邪のタイピスト 
玉乗の足に鞭(しもと)や夏祭 
ラグビーの味方も肉を相搏てり

声を攫われた水夫の口の動き、枯野を来る纏足の女の覚束ない脚のゆらめき、処女の腰に置かれた男の手の欲情、冠がなければ威厳も何もない貧相な臚頂、侯爵朴泳孝の男性ながら白く美しい肌、立ち上がってしずかに歩きだしたタイピストのふくらはぎ、鞭打たれ腫れているであろう侏儒の足、肉体を打ち合う音から伝わるラガーたちの熱気と男臭さ。

しかし掲句は上に挙げた句とは違い、どことなく戸惑いを匂わせる。連作「汗とプベリテエト」4句中の3句目。<おとなびし少年の手の汗ばめる><少年の早くも夏は腋にほふ>のあと掲句、<ほのかなる少女のひげの汗ばめる>で完結する。思春期の少年少女の姿を活写したもので、中では4句目が秀逸であろうが、私は掲句に惹かれる。「みだり」にどの字を当てるか。乱り・妄り・濫り・猥り。『雨月物語』の「かれが性(さが)は婬(みだり)なる物にて」の婬も含まれようか。これらは少年の秘めたる性質。しかしむしろ『源氏物語』桐壷の「かきくらすみだりごこちになむ」の「みだり」を読み取る。言い表しようのない心の乱れ。つまり当事者である少年が無自覚なエロスは汗ばんだことで現れ、その姿を見ることによって誰彼の「みだりごこち」を誘うのではないか、といった他者としての視線。同時にそれを見出してしまった自分。

トーマス・マン原作、ヴィスコンティ監督『ベニスに死す』で主人公のアッシェンバハが美少年タージオに向けた眼が「みだり」であり、彼の苦悩は「みだりごこち」であった。

掲句所収の句集『黄旗』は山口誓子の第2句集。詩精神と現実主義の上に立った句材の幅の広さ、個々の句に独立性を持たせた編集法による連作俳句と、それらを大表題の下に置き一大連作を成すという構成から、従来の俳句の固定観念を打ち破り感性を解放した新興俳句の金字塔といわれる句集である。


玄海の冬浪を大(だい)と見て寝ねき 
渤海を大き枯野とともに見たり 
枯野来て帝王の階わが登る 
陵さむく日月(じつげつ)空に照らしあふ 
笛さむく汽車ゆく汽車の上をゆく 
掌に枯野の低き日を愛づる 
駅寒く下りて十歩をあゆまざる 
映画見て毛皮脱ぐことなき人等 
夏草に汽罐車の車輪来て止る 
春潮やわが総身に船の汽笛(ふえ) 
籐椅子や海の傾き壁をなす 
檣燈を夏の夜空にすすめつつ


(『黄旗』昭和10年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)