2015年7月24日金曜日

黄金をたたく22 [池田澄子]  / 北川美美


プルヌス・フロリドラ・ミヨシに間に合いし  池田澄子


些か時期的に遅い掲出になってしまったが、豈57号で気になっていた句である。知識が無い上で鑑賞してみると、この「プルヌス・フロリドラ・ミヨシ」が謎である上、眼目である。何故これが気になるのか…、それは、語感、音感なのだと思う。

何のソラミミなんだろうか考えていたところ、本家「俳句新空間」で語られている筑紫×福田書簡のバルトにあった。ロラン・バルトの書に、『サド・フーリエ・ロヨラ』(みすず書房)がある。哲学を語るつもりは無いが、「サド・フーリエ・ロヨラ」と「プルヌス・フロリドラ・ミヨシ」と語感が(若干無理矢理)似ている。ラテン語から来る響きがそう思わせるのだと思う。「サド・フーリエ・ロヨラ」(正確には中黒ではなく点を使用 「サド、フーリエ、ロヨラ」)のAmazonでのブックデータが以下。

呪われた作家サド、稀有のユートピア思想家フーリエ、イエズス会の聖人ロヨラ、背徳と幻視と霊性を象徴する、この三人の“近代人”の共有するものは何か。著者バルトは、言語学、記号学の方法によってのみならず、これに社会学、人類学、精神分析等の知見を加えて、彼らが、同じエクリチュール(書き方)をもつロゴテート(言語設立者)であることを明らかにする。ロゴテートとは、既存の言語体系に基礎をおきながら、これを超えた新しい言語宇宙の創設者をいう。この宇宙は、音声、記述言語によるだけでなく、さらに、行為としての言語(サド)、イメージとしての映像言語(ロヨラ)を含んでおり、ここにはバルトの現代的言語観が反映されている。本書の特色は、三人のもつ思想の内容にではなく、各人の表現形式に焦点をおき、分析を展開している点である。

具体的にどういうソラミミなのかというと、「プルヌス・フロリドラ・ミヨシ」が三人の登場人物に思えるからだ。まさに背徳と幻視と霊性を象徴する三人に逢った気がして更に「間に合った」のだから尚さら良いことだろうと想像が膨らむ。行為としての言語(プルヌス)、イメージとしての映像言語(フロリドラ)、そして実際に生きていた近代人の名称(ミヨシ)が新しい言語宇宙を繰り広げるのである。

いずれにしてもラテン語の三語がある宇宙感を作り出す。これを俳句に持ってくるにはロマンが感じられる語でないと効かないのだろうなと思う。

おそらく、言葉の並びから「プルヌス・フロリドラ・ミヨシ」が学名であることに気が付く読者もいるだろう。謎解きすると、「プルヌス・フロリドラ・ミヨシ」は中将姫誓願桜(ちゅうじょうひめせいがんざくら)という岐阜県岐阜市大洞の願成寺境内にある世界に一本だけある桜の学名だそうだ。

因みに、このミヨシは命名者名、三好学(みよしまなぶ)のこと。(1862年1月4日(文久元年12月5日) - 1939年(昭和14年)5月11日)、明治・大正・昭和時代の植物学者、理学博士である。日本の植物学の基礎を築いた人物の一人。特に桜と菖蒲の研究に関しての第一人者であった。Miyoshiは、植物の学名で命名者を示す場合に三好学を示すのに使われる。並びでいえば、属名+種小名+発見者名,ということになる。桜と同じ岐阜出身のプラントハンターだ。

植物学(あるいは植物画)は忠実な事実の写生の記録である。芸術は写生から始まる。この句の言葉から触発され、言葉が宇宙を創り出していく。俳句実作者は、バルト風に言えば、ロゴテート(言語設立者)、ということになる。




<俳句空間「豈」57号2015年4月所収>