巴里祭翅もつものは翅に倦み 「手帖」
巴里祭は季語であるが、日本の7月14日に何か特別なことがあるわけではない。フランスの建国記念日であり、バスチーユ監獄の襲撃を記念する日でもある。実際には、バスチーユ監獄には革命家など収容されておらず、普通の犯罪者が7名囚われていただけだった。襲撃の実際の目的は、不当に囚われた革命家の解放ではなく、監獄の武器弾薬庫であったという。この日に、今なおフランスで行われるのは、国内最大の軍事パレードであり、エッフェル塔の花火である。皮肉な言い方をするなら、戦後の日本人が「革命」や「解放」や「自由」という字面から想像するようなものは何一つない。フランスの軍事力が如何に素晴らしいかを国内外に華やかに見せつけるパレードの日である。更に付記するなら、軍事力の頂点である核兵器を、フランスは350個保有している。米露に次いで、世界三位である。
「巴里祭」は日本だけの呼び方だ。日本人の間に「巴里祭」なる言葉が広まったのは、1932年に制作されたルネ・クレールの映画を翌年(昭和8年、満州事変の翌々年)日本で公開する際に、「巴里祭」と邦題を付けたのがヒットしたのがきっかけである。何ということはない、愛らしい初恋の映画であるが、パリの街並や風俗が、戦前の日本人には新鮮で、手の届かない上等舶来の夢だった。
パリは芸術の都というが、ウィーンだってフィレンツェだって芸術の都である。しかし、パリだけは同時に花の都であって、ウィーンのように仄昏くもなく、フィレンツェのように過剰でもない、日本人にはちょうど良いくらいの華やぎが季語として定着した理由の一つであろう。「ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し」と萩原朔太郎が『純情小曲集』中の「旅上」で歌ったのは、大正14年(1925年)。戦後でいうなら、「憧れのハワイ航路」みたいなものだ。
「巴里祭」という季語は、戦前の当時、多くの日本人は一生目にすることはなかったであろう、ヨーロッパの華やかな都への憧れを、夏の明るい光に託しているのだ。だから、この季語は実体のない、幻の美しさへの憧れ、そうであればいいなあという夢見る雰囲気であろう。もっと言うなら、戦後七十年経った今、我々が使う場合は、「巴里祭」というモノクロ映画に胸ときめかせパリに憧れた頃の日本人を偲び、その古き良き切なき心情を回顧する意味合いをも含んでいる。
(仮に、フランスの五月革命(1968年5月10日)を季語にするなら、「革命」「自由」「解放」の雰囲気は出るであろうし、世界中の学生運動に衝撃を与えた、このゼネラル・ストライキは団塊の世代が共感しやすいであろう。しかし、未だに「五月革命」という季語はない。)
さて、巴里祭が、戦前の日本人が憧れた「夏の蜃気楼」のようなものである事、そもそも映画の邦題であってフランス人には無意味な呼び名である事、現実の巴里祭の日にフランスで行われるのは専ら軍事パレードである事を踏まえて、掲句を読む時、「翅もつものは翅に倦み」が、如何に皮肉と哀しさを湛えているかは了解できると思う。飛ぶことに倦んでいるのだ。幻に、雰囲気に向かって飛ぶことに。羽ではなく、翅であるから、昆虫の類であって、鳥のように高く飛べる訳はない。
蝶々なら詩的に物凄く頑張って、韃靼海峡を渡れるかどうかであろう。或いは、露を金剛と観ずる眼にあれば、杏咲く頃に、びびと響いて受胎告知を知らせるくらいはできるかも知れぬ。だが、羽ではなく、翅しか持たぬものは、幻に、理想に、雰囲気に、憧れという実体の無いものに向かって飛ぶ事しか出来ぬだろうか。それならば、「倦む」とは、一つの救いの始まりかもしれぬ。現実を凝視する事によってしか、道は始まらぬからだ。平成15年作。