夕べ泪朝歓声のナミアゲハ 大井恒行
一読、「朝に紅顔夕べに白骨」を思わせる。和漢朗詠集によっても蓮如上人の白骨の御文章によっても有名であり、平家物語の冒頭、「祇園精舎の鐘の音」にも通じる。
掲句が平家を連想させるのは、ナミアゲハにもよる。平家の一般的な家門は、並揚羽を図案化した揚羽紋だからだ。
仮に上五中七が「朝紅顔夕べ白骨」なら、面白くもなんともない。もう一ひねりして、傍観する如く人生の虚しさを観ずる心情を詠って、「朝歓声夕べ泪」としても、まあ普通の感慨である。
掲句の眼目は、先ず夕べの感慨を出し、次に朝の高まりを掲げたところにある。諸行無常など判り切っているのである。戦いは破れ、正義は滅び、昂揚は失われ、人は衰える。心静まる夕べには、涙する事もあろう。だが、朝になれば、日の昇るごとく再び歓声を上げる。無常は充分承知の上で、歓声を上げる。つまり、「朝紅顔夕べ白骨」或いは「朝歓声夕べ泪」なら、良く言えば客観、悪く言えば傍観者の感慨であるが、「夕べ泪朝歓声」は、当事者の主観である感慨であり、無常に抗して立たんとする気概である。
平家物語が遂に負ける戦いへ進んでゆく平家一門への鎮魂歌である事を思い、並揚羽が日本のどこにでもいる普通の揚羽ゆえに「並」がついていることを考え、更に作者が団塊の世代であり全共闘世代でもある事を鑑みるなら、あの日本中を席巻した全共闘の戦いは最初から負けるに決まっていたのである。
全国遍くどんなに頭数を揃えようと、普通の学生が、時の権力に勝てる訳がなく、ましてや海の彼方の不敗の軍事大国に勝てる訳がない。それでも自分たちの為し得るあらゆる手段を模索した。そして夕べのたびに自らに疑問を抱き、虚しさを感じて密かに涙した。朝になれば、性懲りもなく、歓声を上げた。それはひとえに若さという生命力のなせる業であった。生命力それ自体が、正義を、自由を盲目的に求めるのだった。
掲句は、先ず上五において沈潜し、次に中七において昂揚し、下五に至って普遍性を、ナミアゲハのごとく普通に遍く存する事を求めるのである。これは全体主義の枷にではなく、個人主義の自尊に期する姿勢である。そして全共闘の敗因も恐らく、その個人尊重の姿勢にあったのであろう。だが、それゆえにその精神はサブカルチャーの核の一つとして、現在広く融け込んでいる。ナミアゲハの如く、日本全国どこにでも各々の個人性の中を、普通にあまねく自由に舞っているのである。
<角川「俳句」2015年7月号「無題抄」より。>