スプーン並べる間隔いつのまにか秋 宮崎斗士
英語のスプーン(spoon)はオランダ語(spaaon)、ドイツ語(span)と同じく木の切れ端、もしくは木の裂いたものという意味が語源だそうだ。ちなみにフランス語のスプーンにあたるものは、キュイエール(cuiller)で、ラテン語の貝(cochleare)が語源。
西洋では「銀のスプーン」を出産祝に贈る習慣があり、「一生食べ物に困らない。」「一生お金に困らない 」...の願いが込められる。
この句のスプーンも、テーブルウエアのカトラリーとして使うスプーンだろう。「スプーン並べる」とあるのは、これから使用するかもしれないスプーン、あるいはオブジェとしてのスプーンを延々と並べている風景が想像できる。日本にシチュエーションを合わせるとホテルの宴会場やカフェで黒服のお兄さんがセッティングしている姿が想像できる。 スープ、あるいは、食後のコーヒーか、デザートでのスプーンあたりかと予想する。用途によって形や大きさが異なれどスプーンは「食」を連想させる。 ゴルフの三番ウッドもスプーンという別名があるが、これも食器のスプーンから来ている。
スプーンだけを並べている黒服のお兄さん(ギャルソンあるいは執事)は何を考えるのか、その間隔を正確に配置することが仕事なのだから、スプーンとスプーンの間隔に集中しているはずだ。 並べるという単調な作業に慣れて来ると、このスプーンを使うお客様、あるいはご主人が何を召し上げるか、誰とそれを召し上がるのか、どんな時間を過ごされるのか、、…などなど他人様の生活を想像して、それがギャルソンあるいは執事としての一瞬の業務上の愉しみであり、次の行動をとるためのヒントにもなる。黒服のギャルソンまたは執事は想像力が豊かでなければならない。
昼メロ風に場面を考えみる。フランス風カフェの道側の席にふと、美しいマダムが座る、ご婦人に黒服のギャルソンは、「奥様、何か御用でしょうか?」と尋ねる。 「珈琲を二つ」それから「タルトタタン(フランス風の焼き林檎のタルト)をひとつ」 連れのお客様がすぐに来るらしい。 今まで並べていたスプーンから、珈琲用のスプーンを二つとデザート用のスプーンをひとつ取る。 今まで並べてたスプーンがそこから無くなり、当然、今まであったスプーンが確保していた領域分の空間がそこに生まれる。
ここでは等間隔かの詳細がわからないが、今まで積み重ねて作って来たスプーンとスプーンの間隔に生まれていた安定性が、並べたスプーンが無くなる度に当然不安定になる。スプーンを並べる行為は、その間隔に何が起こるのかを考えていく作業である。間隔に緊張感が生まれて美しい配置となるのである。 トランプが並べられて美しいのと同じで、西洋様式のものは間隔の規則制をもって美しさの黄金律がある。 間隔を考えて並べている行為は馬鹿馬鹿しくもあり哲学的、美学的ともいえる。
「ニュートンのゆりかご」がカチカチと音をさせているような気にもなる。 そんなことを考えているうちに秋になった、ということだろうか。物思いにふけるには秋が最適だ。なので「いつのまにか」なのである。
人生における真剣さと可笑しさが入り混じっている。知的なミスタービーン風。 いわば、俗と雅とを渡っている、まさしくそれは俳句の美味しいところなのではないかと思う。
<『そんな青』六花書林2014年所収>