2015年10月14日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 23[中村草田男]/ 依光陽子


秋の航一大紺円盤の中 中村草田男


印度洋を航行して居る時もときどき頭をもたげて来るのは   秋の航一大紺円盤の中  草田男  といふ句でありました 虚子    (中村草田男『長子』序)

句集『長子』に寄せられた高濱虚子の序文だ。印度洋航行という豪快な気分は残念ながら共有できないが、仮に伊豆七島を航行する東海汽船の船上であっても掲句の爽快感は十分味わえる。誰もが一読、胸がすくような爽快感と開放感を覚え、澄みきった空の下、真っ青な海原を進む船と丸みを帯びた水平線がイメージされるだろう。草田男の句の中で特に好きな句だ。

しかしそれだけの句だろうか、と立ち止まる。

私は二つの海を思い出していた。
一つは映画『永遠の語らい』(マノエル・ド・オリヴェイラ監督 2003)の海。
もう一つは映画『惑星ソラリス』(アンドレイ・タルコフスキー監督1972)の海。

前者はポルトガル人の母娘が歴史的遺跡を辿りながら夫の待つボンベイへ船旅を続ける。ただ優雅に見えるその船旅は、実は人々が何千年も前から戦争に明け暮れ、収奪と喪失を繰り返していた歴史を辿る凝縮された時間の旅と重なっている。最後は新しい悪の形であるテロの問題が提起されるのだが、人類の愚かさに対する海の美しさが重く心に残り続ける。

後者は海と霧に覆われた惑星ソラリスへ探索へ行った心理学者の眼にした海が、知性を持った「思考する海」として描かれる。心理学者はソラリスを前に自問する。「人は失いやすいものに愛を注ぐ。自分自身、女性、祖国…。だが人類や地球までは愛の対象としない。人類はたかだか数十億人、わずかな数だ。もしかすると我々は人類愛を実感するため、ここにいるのかも」

勝手な連想だ。だが、この句の前後に航海の句はなく、虚子の船旅に際し贈った句かどうか前書もないのだから鑑賞は自由だろう。草田男が哲学、わけてもニーチェに傾倒していたこと、求道的な句が散見される事を鑑みるに、掲句はニーチェの「遠人愛」的視点とも受け取れるし、人類の背負った運命を一つの航海に重ね描いたオリヴェイラの問いかけへ想が飛ぶ。また、タルコフスキーがソラリスの海に表わそうとした「人類愛」とも結びつくのだった。「一大紺円盤」の海。掲句が夏の航ではなく、秋の航ゆえに地球上の一存在としての自己を強く意識する。

併せて句集『長子』の跋文の次の言葉も引いておこう。

<私は、所謂「昨日の伝統」に眠れる者でもなければ、所謂「今日の新興」に乱るる者でもない。縦に、時間的・歴史的に働きつづけてきた「必然(ことはり)」即ち俳句の伝統的特質を理解し責務として之を負ふ。斯くて自然の啓示に親近する。横に、空間的・社会的に働きつづけてゐる「必然」と共力して、為すべき本務に邁む。即ち、時代の個性・生活の煩苦に直面し、あらゆる文芸と交流することに依つて、俳句を、文芸価値のより高き段階に向上せしめようとするのである>
草田男が虚子に師事したのは27歳。当時としては決して若いスタートとは言えない。第一句集『長子』で俳句作者として生きる決意をした後、草田男の句がどのように展開していったのか、以前とは別の角度から読めそうな気がしている。


つばくらめ斯くまで竝ぶことのあり
おん顔の三十路人なる寝釈迦かな
負はれたる子供が高し星祭
蟾蜍長子家去る由もなし
夜深し机上の花に蛾の載りて
手の薔薇に蜂来れば我王の如し
六月の氷菓一盞の別れかな
蜻蛉行くうしろ姿の大きさよ
貌見えてきて行違ふ秋の暮
山深きところのさまに菊人形
冬の水一枝の影も欺かず
あたたかき十一月もすみにけり
降る雪や明治は遠くなりにけり

(『長子』昭和11年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)



~およ日劇場~  youtubeより



Um Filme Falado (2003)
映画『永遠の語らい』(マノエル・ド・オリヴェイラ監督 2003)




 

映画『惑星ソラリス』(アンドレイ・タルコフスキー監督1972) 予告編
http://www.imageforum.co.jp/tarkovsky/wksslr.html