菜の花菜の花子供でも産もうかな 時実新子
新子さんにこんな句がある。
おまえたまたま蜘蛛に生まれて春の中 時実新子
「おまえたまたま蜘蛛に生まれて」にあるのは絶対的な生を「たまたま」として相対化するまなざしだ。
「たまたま蜘蛛に生まれ」ただけなので、ひとに生まれたかもしれないし、象に生まれたかもしれないし、竜に生まれたかもしれない。でも今回は「たまたま」蜘蛛だったのだ。
時実さんの川柳にはこうした絶対的な生に〈相対性〉を導入するまなざしがひんぱんにみられる。その相対性は、〈わたしのこの生〉をもうひとつのありうる生の可能性へとひらくまなざしとして機能するはずだ。
掲句をみてみよう。
「子供でも産もうかな」とここには〈こどもは産むべき〉という絶対性から解放された発話がある。「子供でも産もうかな」とも思うし、「産まないでおこうかな」とも、思う。生殖のための性でもなく、二人に完全に閉じた対幻想的恋愛でもない。ひとりの、しかし、そのひとりがふたりに分裂する瞬間をとらえた「でも」と「かな」だ。
もしかしたら川柳がはじめて性/愛を〈ひとり〉のものとして考えたしゅんかんかもしれない。〈産む〉というたえず「産めよ殖やせよ」が無言でおしつけられるなかでそれを「産もうかな」と相対的発話に転置するとき、生殖的身体からも解放された過激な軽やかさが産まれる。
ひとはもしかしたらひとを「たまたま」産むのだ。そしてもしかしたらわたしたちは「たまたま」産まれたのである。
興味深いのはふたつとも「春」のなかに置かれた相対性の句だということだ。「菜の花」は春の花だし、「蜘蛛」も「春の中」にいる。春は生き物たちがうごめきだし、生まれだす季節だが、そうした生と性のカオスのなかでこれらの句は生まれることの相対性・たまたま性を考えている。
「この世」のなかを「この世」のなかとしてたまたま「生きて」みる視線。新子さんの川柳とはそういうものではなかったか。
新子さんの川柳は、こういっている。きょういちにちをたまたま生きてみようよ、と。
わたしたちはいつでも明日たまたま生まれなおすことができる。やりなおす、生まれ直す、ということは、そういうことだ。あの有名な俳句を思い出してみよう。生の〈たまたま性〉を切りひらく句として。
じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子
短詩には、「この世」を、「じゃんけん」のように、駆け込んだ〈個室〉のようにとらえる生のタフネスがある。なんどくじけても、そこから始めれば、いい。
入っています入っていますこの世です 時実新子
(「問わぬ愛」『有夫恋』朝日文庫・1992年 所収)