砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている 俵万智
ちょっと岡野大嗣さんのハムレタスサンドの歌を思い出してもいいかもしれない。
ハムレタスサンドは床に落ちパンとレタスとハムとパンに分かれた 岡野大嗣
(『サイレンと犀』書肆侃侃房、2014年)
ここで岡野さんの短歌はサンドイッチの冷酷な本質をえぐりだしているように思う。それはなにかというと、サンドイッチというのはつかの間統合されたものであり、それは分離させようと思えばいつでも分離させられるものであるという事実である。サンドイッチとは統合されたつかの間のイメージ=幻想物であり、それは「パンとレタスとハムとパン」という現実界に還っていく可能性もつねに持っている。
その意味ではサンドイッチとは危機に瀕した食べ物であり、精神分析的な主体にも近い。わたしたちはふだんなんらかのイメージで主体をサンドイッチのようにまとめあげているが、危機的な瞬間にそれらがばらばらに分解し、まったく無意味なただモノとモノが支配する現実の世界に投げ出される可能性もある。 そのときわたしたちが感じてしまうのはそれまでイメージからは接近することができなかったモノとしてのリアルな死だろう。
ともかく、サンドイッチは危機的な食べ物かもしれない。
俵さんの歌をみてみよう。この歌はなんだか危機的である。時実新子さんは川柳においては中七さえしっかりしていればどんなに頭やおしりがでこぼこしていてもぐらつくことはないと何度も書いていたが、この俵さんの歌の第二句は、7音ではなく、「ランチついに」と6音になっていることに注意しよう。
この第2句が6音になることで非常にぐらぐらしているのだ。もちろんそれは構造的にぐらぐらしているだけでなく、最初の「砂浜」のイメージもすでに意味的にぐらぐらしている。「砂浜」から始まった歌。それはしっかりしない土壌で始発されたものだ。
そして「卵サンド」。「卵サンド」は幻想の完成物である。岡野さん風に微分していうなら、パンと卵とマヨネーズとパンが複合してできあがったのが「卵サンド」だ。ところがそれは「手つかずの」ままになっている。「気になっている」のだからたぶんその「卵サンド」は〈わたし〉が作ったものだろう。しかしその完成された幻想の複合物を相手は受け取ろうとしない。〈わたし〉と〈あなた〉はサンドイッチのように〈いっしょ〉になることはできない。
もしかしたら俵さんの歌においては、〈食べ物〉はわたしとあなたの対幻想をとりもつなにかなのかもしれない。いっしょになる/ならないがイメージを通して試される場所が食べ物である。
言ってみればあの有名な「サラダ記念日」というのは「サラダ」という食べ物と「記念日」という共同幻想が複合化され、わたしとあなた〈だけ〉の対幻想として立ち上がったものではないか。
「この味がいいね」とあなたは言った。〈あなた〉は「卵サンド」を受け取らなかったが、〈わたし〉はあなたのその言葉を受け取るだろう。意味を費やして、「記念日」として、わたしとあなたの対幻想として。
でもその対幻想をあなたが受け取るかどうかはこの「卵サンド」のようにわからないことだ。「この味がいいね」と食べ物に終始しているあなたに対して、「記念日」というメモリアルに置換したのはあくまでわたしの意味構築でしかないのだから。
あなたがなにを考えているのかなんてわたしにはわからない。でも、「気になっている」。
「サラダ記念日」の「七月六日」は「七月七日」という七夕=対幻想から一日ズレた日だ。そのズレをぼくたちは〈どう〉考えればいいんだろう。どう、考えますか。
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 俵万智
(嶋岡晨「Ⅱ 実例篇-イメージ表現のさまざま」『短歌の技法 イメージ・比喩』飯塚書店・1997年 所収)
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