2016年12月16日金曜日

フシギな短詩67[小池正博]/柳本々々



  これからは兎を食べて生きてゆく  小池正博


助詞「は」に川柳的主体性を見出したのは樋口由紀子さんだった。樋口さんは『川柳×薔薇』(ふらんす堂、2011年)において、川柳の「は」は「助詞に「私」の意志を強く含ませ、そこには明らかに「私」が存在し、「私」に問いかけている」と述べている。

だからたとえば掲句を、


  これから兎を食べて生きてゆく

としては、ダメなのだ。「は」という助詞によってもっと〈これからの生〉に関わっていく川柳的主体性をみせること。それが「これからは」という助辞の意志であり、「生きていく」意志につながっているのである。

だからこう言ってもいい。この兎は《川柳の意志》のなかにある兎なのだと。この「兎」はすでに川柳的な助詞「は」によって食べられている「兎」なのだ。

もちろんこの小池さんの句集のタイトル『転校生は蟻まみれ』の「蟻」も川柳の意志のなかにある〈蟻〉である。そこには第一句集『水牛の余波』の〈の〉で中性的に言語放牧されているような水牛はいない。

蟻も、兎も、〈わたし〉が積極的にまみれたり、食したりすることで積極的に関わっていくものなのだ。

蟻にかじられ、兎にかじられること。その〈かじる行為〉を促すのが、たった一音の助詞「は」なのである。川柳の祝祭的で不穏なカーニヴァルはたぶんこの一音に存在している。たった一音の川柳の呪文。すなわち、「」。

だからあえてこんなふうに大胆な解釈を切り出してみたい。「これからは兎を食べて生きてゆ」こうとしている語り手が食べようとしていたのは「兎」ではない。語り手が食べようとしていたのは「これからは兎」というセンテンスそのものなのだと。「これからは兎」を食べて生きてゆく。

語り手は、助詞「は」が含まれたセンテンスそのものを喰らい、その身につけようとしていたのである。

そう、これは助詞のカニバリズムをめぐる句なのだ。そしてそのときはじめてわたしたちはなぜこの句集のタイトルが『転校生《は》蟻まみれ』だったのかに、気づくはずなのだ。

転校生を喰らおうとしていたのは「蟻」ではなく、隣接した係助詞「は」そのものだったのだから。「転校生」はいま助詞から食いつぶされているのである。助詞に埋め尽くされた助詞まみれの転校生。いや、そうじゃない。転校生は助詞まみれ、なのだ。というのは、小池さん、どうでしょうか。


  頷いてここは確かに壇の浦  小池正博


          (「公家式」『転校生は蟻まみれ』編集工房ノア・2016年 所収)