2016年12月6日火曜日

フシギな短詩64[フラワーしげる]/柳本々々





  何だっけ映画に出てくる動物の名前 何だっけ動物の種類 何だっけ動物って  フラワーしげる

フラワーしげるさんの短歌を繰り返し読んでいて気がつくのは語り手の奇妙な〈忘却〉の仕方である。それは掲出歌のように「何だっけ/何だっけ/何だっけ」という意味のレベルで〈忘却〉が行われている、というよりも、むしろ〈定型〉=語り方のレベルで行われているように思うのだ。ちょっと何首か引用してみよう。

  何だっけ映画に出てくる動物の名前 何だっけ動物の種類 何だっけ動物って  フラワーしげる

  棄てられた椅子の横を通りすぎる 誰かがすわっているようで振りむけない  〃

  金持ちよどんなに金をつかっても治らない難病で苦しみながら死んでいってほしい子供のほうには罪はない  〃
  
 (「二十一世紀の冷蔵庫の名前」『現代歌人シリーズ5 ビットとデシベル』書肆侃侃房、2015年)

  オレンジのなかに夜と朝があって精密に世界は動いていた。私はそこで生まれた  〃


   (「二十一世紀の冷蔵庫の名前」『短歌研究』2014年9月)

短歌というよりはどちらかというと音律を意識した詩のようにもみえるが、注意したいのは最初はいつも語り手が〈定型意識〉から短歌に入ってゆくことだ。五七五定型から語り手は語りに没入していくのである。

  なんだっけ/えいがにでてくる/どうぶつの
  すてられた/いすのよこをと/おりすぎる
  かねもちよ/どんなにかねを/つかっても
  おれんじの/なかによるとあ/さがあって

ところが語り手は語っているうちにだんだんと定型を忘却していくかのように〈饒舌〉になっていく。わたしが奇妙な〈忘却〉が行われていると言ったのはその意味においてである。

フラワーさんの語り手は、語っているうちに、〈短歌の語り方〉そのものを忘れていくという奇妙な忘却をみせる。それを別の言い方でこんなふうに言ってもいい。語り手は語っているうちに、内容=意味の方に加速度的にひっぱられてゆき、短歌の語り方を忘却し、意味内容の充実に引き寄せられていくのだと。

これを〈連想の強度〉と呼んでみてもいいのかもしれない。わたしたちは短歌を詠むとき、連想をしながら意味を呼び寄せ、しかし、連想しながらも定型を忘れずに、定型とともに短歌を詠んでいく。つねに意味の連想と定型意識は葛藤している。意味の連想がどれだけ豊かにひろがっていっても、定型を逸脱したらそれは詩や散文になってしまうからだ。

ところがフラワーさんの語り手は連想の強度によって語り手がぐんぐん暴走しはじめる。「金持ちよ」の歌はその最たるものかもしれない。この歌に語り手の〈怒り〉があるとしたら、それは「死んでいってほしい」という過激な物言いとしての意味内容にではなく、語り手がそれを語っているうちに定型意識を忘却していくその語り方そのものにある。

この短歌における〈連想)は、実は短歌の遺産そのものとしてある。「序詞(じょことば)」だ。序詞の歌として有名なのは『百人一首』にもおさめられている柿本人麻呂がつくったとされる次の歌だ。

  あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を一人かもねむ  柿本人麻呂

この人麻呂の歌では、「あしひきの山鳥→山鳥の尾→しだり尾→ながながし」という「夜」にかかっていく長い長い序詞的連想によって《長さ》が充実させられている。しかしその連想の〈暴走〉を静かに・穏やかにしているのは遵守された定型意識である。だからこそ、「一人」で「ね」ることの〈静かなさびしさ〉が浮き彫りにされる。

この人麻呂作と言われる歌に対して批評家の福嶋亮大さんがこんな説明をしている。

  夜の無内容さが際立っていたこと…。この歌は、意味だけをとるならば「長い夜を一人寂しく眠るのだろうか」というだけのことであり、事実上何も言っていないに等しい。しかし、折口信夫によれば、この無内容さには古代人の幸福感の一つの型を認めることができる。歌の平凡な内容が吹き飛んでしまった後「残るものは、過去のわれわれの生活の、実にのんびりとした、のどかな生活であったことを思わせる生活気分が内容となった、空虚そのものがあるだけのことです」。
  思念が深められる夜の時間帯について、この作者は特別な調べを用いずに、のどかな「空虚」のままに留め置いた。
 

   (福嶋亮大「復興期の「天才」」『復興文化論』青土社、2013年)

福嶋さんの指摘するこの歌の〈無内容=空虚〉を受けてわたしが思うのは、〈空虚〉を成立させるためにはある構造的布置がいるのではないかということだ。たとえば定型を遵守しながら、定型=形式をきっちり充実させながら、しかし意味内容を充実させずに、序詞を用い、〈無内容〉かつ〈空虚〉のまま「一人かもねむ」にたどりつくこと。それが短歌にとっての〈空虚〉である。そしてそこには折口信夫の言葉で言えば「古代人の幸福感の一つ」である「実にのんびりとした、のどかな生活」がある。

フラワーさんの短歌はその逆をゆく。連想が加速し肥大し、定型を忘却し、それは〈苛烈さ〉となり、「死んでいってほしい」を生み出す。ここにはもしかしたら〈現代人の不幸の一つ〉であり〈実に苛烈な生活〉のあり方が示されているのかもしれない。

こんなことを言うのは奇天烈なことだということをわかっていて言うが、もし短歌に〈感情〉があるのだとしたら、それは語り手が定型に対してどのように振る舞ったか、振る舞わざるをえなかったか、なにを記憶し、なにを忘れようとしたか、というところにこそあるのではないか。

そこからもう一度かつてこの「フシギな短詩」で取り扱った岡野大嗣さんの長歌を振り返ることもできるかもしれないし、飯田有子さんの破調歌を見直すこともできるかもしれない。

ところで、この記事の最初に書こうとしていた一文をこの記事の最後の一文として書いて終わりにしようと思う。それは、

定型に対するひとそれぞれのふるまいをときどき無性に不思議に思うことが、ある。

  背は何のために大きくなった 手はなにを摑むためにある 星の下で靴を磨く  フラワーしげる

          

(「二十一世紀の冷蔵庫の名前」『現代歌人シリーズ5 ビットとデシベル』書肆侃侃房、2015年 所収)