誰からも習つたことはないはずのへんな形になる ひとを恋ふ 本多真弓/本多響乃
クリスマス前なので「ひとを好きになる」ということについて少し考えてみよう。
この本多さんの歌集に収められた短歌は社会から押しつけられる〈形〉に非常に敏感だ。ちょっとみてみよう。
佐藤さんは
結婚しても
佐藤さん
手続き楽よ
と
笑ふ佐藤さん 本多真弓/本多響乃
レシートに
一人
と記載されてゐて
わたしはひとりなのだと気づく 〃
赤い字で記入してくださいねつて
赤いボールペン渡される 〃
社会から押しつけられる形、それは「結婚」したあとの〈名字〉であったり、貨幣を支払ったあとの「一人」であったり、「赤いボールペン」だったりする。これら歌が特徴的なのは、〈だれか〉や〈なにか〉と《関わる》ことによってその押しつけられる形が生まれるということだ。
わたしたちが社会に関わるということは時になにかを生み出すことではなく、場合によっては、形式を押しつけられることになるかもしれないことを端的にあらわしている(それは「ひとを好きになる」ときもそうだ。「ひとを好きになる」とは実は誰かに・社会に関わるということなのだ)。
「佐藤さん」は「手続き楽よ」と「笑」っているが〈わたし〉は「楽」じゃないかもしれない。そのとき「手続き楽よ」というなにげない言葉はわたしにかすかな暴力として機能するかもしれない。だれも・なにも意図していないのに。
そうここにあらわれた〈押しつけ〉は誰も〈押しつけ〉ようとはしていないものだ。「赤い字で記入してくださいね」は〈押しつけ〉ようとする意図ははない。「赤い字で記入し」なければならないから「赤いボールペン渡」したのだ。しかしそこになぜかかすかな暴力の匂いが生まれてしまう。
これを無人称の暴力と名付けてみたい。誰が意図したわけではない、誰もそうしようと思ったわけではない、しかし誰かと誰かが交流し関わったときに生まれてしまう誰のものでもなく私にかかわってくる暴力を。
掲出歌をみてみよう。だからこその「へんな形」の有効性なのだ。「へんな形」とは〈押しつけられた形〉への反逆になるだろう。もちろんそれも意図しない反逆になる。
ひとを好きになるということは、社会から形をおしつけられることでもある。しかし、同時に、社会から押し付けられた形をくつがえす思いがけない「へんな形」に出会うのもまたひとを好きになるということなのだ。
その意味で、ひとを好きになるということは、素晴らしくない状況にじぶんをつっこみながらも、予想もしない素晴らしさに出会う行為でもある。へん、とは、予想不可能性のことだ。〈わたしの好き〉がたとえ予想可能であっても、〈なんでこのひとがこんなに好きなんだろう〉はいつも「へん」という予想不可能性としての素晴らしさがある。
「恋」をするということは予想もしなかった思いがけない〈形〉をうむことになる。だれも知りえなかったへんなかたちを。
それは押しつけられた形をたえず手に握らされる〈わたし〉の《形の反逆》になるかもしれない。
その意味で、誰かを好きになったり、誰かに恋をしたりすることには、希望がある。
ひとを好きになることは多くの失望をうむ。でも、それでもひとを好きになる「へん」てこなあなたは、もっと希望になる。
このあひだきみにもらつた夕焼けが
からだのなかにひろがるよ昼間にも 本多真弓/本多響乃
(『猫は踏まずに』2013年 所収)