2016年12月27日火曜日

フシギな短詩70[吉田戦車]/柳本々々




  パンが好き/心隠して/植える苗  吉田戦車

   【評】稲作農家として米作りにうちこんできて50余年。作る米は高い評価を受け、後継者も育った。「でも本当は……」このことだけは生涯誰にも言うまいと、静かに田を見つめる萩原さん(仮名)の春だ。

ほんとうは「パンが好き」なのにその内面を抑圧して「苗」を植える「萩原」さん(仮名)。こうした〈ほんとうはそうじゃないのに・でもそうするしかなかった〉という静かな激情的内面の構成の仕方はおなじ吉田さんの漫画『伝染るんです。』にも時折見受けられた。

たとえば『伝染るんです。』においてかわうそ君にコーラの飲み方を教わる高齢者たちがそうだろう。ほんとうはコーラが飲みたいのだが炭酸の泡の圧力に負けてしまう。しかし、〈飲みたい〉のだ。

この本の装画に注目してみよう。船長の格好をしたイタリア系男性が短冊に羽根ペンで一句詠んでいる。「なぜあなたがハイクを」という吉田戦車さんらしいシュールな風景になっているのだが、この表紙をひらくと扉絵にはおなじ構図で未知の生命体がやはり短冊を手にし一句詠んでいるシュールな風景があらわれる。

つまり、なんなのか。

装画・扉絵からわかるこの本のコンセプトとして、このエハイク(絵俳句)は「それっぽくないひと」が「そうでない場所」で詠んだものだということができるだろう。非俳句的な場所から。

それは掲句からもわかる。パンが好きなのに米作りに精進している。「ほんとうはこうだったのに」という隠される激情。それは、〈ドラマ〉である。葛藤だから。俳句はドラマ=葛藤からいちばん遠く離れた場所にある文芸だが、しかし〈あえて〉俳句にドラマを持ち込むこと(おそらくそのドラマをナチュラルにするのが一枚絵の説得力だ)。

だから吉田戦車的構図とは、「そうでない」風景に埋め込まれたときに生み出される。高齢者たちがコーラを若者のように飲まなければならなくなったときに「そうでない」ドラマがうまれるのだ。

  ふきのとう/となりの犬は/食べぬなり  吉田戦車

犬がおじさんにふきのうとうを押しつけられている。おじさんはこう思っている。「犬はふきのとうを好きなはずだ」と。しかし犬はこう思っている。「おい、おじさん、やめなよ」と。

激しく行き違う内面。これも吉田戦車的風景のひとつだ。吉田戦車マンガに人外やロボット、星人、動物、高齢者、お嬢さま、ヤクザといった通常のコミュニケーションではすれ違う人々がでてくることが多いのはこれが理由なのかもしれない。「好きなはずだ」と「おい、やめなよ」の過激な交錯。それが吉田戦車の風景だ。


         
 (『惡い笛 エハイク2』フリースタイル・2004 所収)