2016年12月2日金曜日

フシギな短詩63[熊谷冬鼓]/柳本々々


  なぞ解きの途中でパスタ茹であがる  熊谷冬鼓



短詩型とは何かと考えたときに、それは〈意識の逸脱〉なのではないかと思うことがある。

たとえば、掲句。「なぞ解きの途中」で「パスタ」が「茹であが」ってしまう。それまで「なぞ解き」に注がれていた語り手の意識は茹であがった「パスタ」の方にふいに逸れてしまう。

「なぞ解き」から「パスタ」への〈意識の逸脱〉。

このとき注意したいのは、いったいその〈意識の逸脱〉を支えているものはなんなのかということだ。

わたしたちはふだんの生活でも〈意識の逸脱〉を繰り返している。

潜水プールの底でふいに好きなひとのことを思い出したり、シリアスな話をしているときにドーナッツが食べたくなったりする。でもふいにやってきたそれらは、ふいにやってきたからこそ、〈流れてしまう〉。どこかに、きえてしまう。しかし、短詩型では、それは、流れない。〈留まる〉のだ。

では、なにが、その〈やってきた逸脱〉を留めおくのか。

わたしはそれは〈定型〉なのではないかと思う。定型というパッケージングを通して、そのときそこにあった〈意識の逸脱〉を瞬間冷凍すること。それが〈定型〉の役割なのではないか。

つまり定型によってわたしたちは〈意識の逸脱〉をはじめて統合したかたちで記憶できるのではないかと思うのだ。〈記録〉という整理されたかたちのパッケージングではなく、分裂したままの〈記憶〉というかたちで。

だからこの句が示すように、定型の役割とは「なぞ解き」ではない。

定型は、真理を指し示すわけでも心理をつまびらかにするわけでもない。それはこの句のようにつねに〈ある「途中」〉を〈そのまま〉記録するのだ。

そしてそのままの〈逸脱〉のしゅんかんをずっと〈審理〉としてあなたにゆだねつづける。なぞ解きの途中でパスタが茹であがったその途中のありかたをあなたに尋ねる。あなたならどうするのかと、あなただったらどんな途中があり得るのかを。出来事の過程(プロセス)のまっただなかにあなたを据え置くのだ。パスタが茹であがる直前の、謎が解けそうな直前の、ぎりぎりでばらばらの分裂した時間のなかに。

その意味において、定型とはつねにパスタが茹であがるのを待つ〈大きな途中〉としての〈鍋〉なのではないかと思う。

わたしたちはどこかに「なぞ解き」=真理があるのを知っていながら、定型によって意識を逸脱させつつも、「パスタ」に向かうのである。

そしてそのパスタ以上でも以下でもない場所にたたずんで未来から次から次へとおとずれる〈あなた〉のことを待っているのだ。ことば、茹でながら。

  これ以下も以上もなくて曼珠沙華  熊谷冬鼓

         

 (「セロリの匂い」『東奥文芸叢書 川柳29 熊谷冬鼓句集 雨の日は』東奥日報社・2016年 所収)