五七五七五七……と百五十以上も続く。ピリオドがない。 リービ英雄
短歌には長歌がある。その長歌は現代の短歌にも不思議なかたちでときどき現れるが、そもそも長歌とはなんだろう。現在の視点からどうとらえればいいのだろう。
リービ英雄さんは「長歌こそ『万葉集』の醍醐味である」と述べている。
長歌を読むのは、たしかに大変なことだ。ぼくはプリンストンにいた時代、アパートの部屋に一人座って、バッハのカンタータを聴きながら、長歌を読んでいた、翻訳していた、英語で書き直していた、作っていた。そこで、長歌こそ『万葉集』の醍醐味であることに気がついた。
……
たとえば一九九番。この歌は非常に長く、ぼくは「和歌のエベレスト」と書いたことがある。五七五七五七……と百五十以上も続く。ピリオドがない。だからひとつの長い日本語の文章として把握しなければならない。
(「『万葉集』の時代」『我的日本語』筑摩選書、2010年)
リービさんの記述を読んでああそうかと私は思ったのだが、長歌のなによりもひとつの特徴は〈短歌という形態がそもそもピリオドがないということを意識させる形式〉という点にある。くどい言い回しになったが、かんたんに言えば、長歌を読むと、短歌ってそもそもピリオドがない文芸だよね、句点をうたない文芸だよね、でもそれってなぜなんだろう、と問いかけられるということだ。
これはフシギなことではないか。
現代の短歌を任意に取り出しても誰も短歌の終わりに句点(。)を打とうとしない。つまり、通常の文章意識とは異なる意識のなかで短歌をうたい・書いているということになる。その意味で短歌とは口唱性をまつわるものでありながらも、非常にエクリチュール(書き言葉)を意識した表現形式とも言える。
現代短歌のなかの長歌を少しみてみよう。たとえば「フシギな短詩」では岡野大嗣さんの長歌をかつて取り上げた。長歌ではないかもしれないが破調としての長さをもった歌として飯田有子さんの短歌も取り上げた。また前回、フラワーしげるさんの長い歌も取り上げた。それらを今もう一度取り上げてみよう。
空席の目立つ車内の隅っこでひとり何かを呟いている青年が背負っているものは手作りのナップサックでそれはわたしの母が作った 岡野大嗣
たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔 飯田有子
何だっけ映画に出てくる動物の名前 何だっけ動物の種類 何だっけ動物って フラワーしげる
これらの〈長い歌〉は実は短歌というのは〈短・歌〉という名称をもちながらも〈長く引き延ばそうと思えばどこまでも引き延ばすことができる形式〉というただならぬ事態をあらわすものだということができないだろうか。短歌にはピリオドがないのだから。ピリオドがないとうことは、独特の空間拡張が韻律に沿って可能だということである。
どの三首もそうだが、韻律への意識がある。「空席の」や「何だっけ」という初句5音で始まる意識、「たすけて/たすけて」がリフレインされることで律をつくる意識。これらの歌はもし〈そう〉しようとしさえすればどこまでも〈長く〉することができる歌である。「たすけて」や「何だっけ」は続かせることのできる形式を育てはじめている。その意味で〈長・歌〉の方がもしかしたら〈短歌〉があらかじめ内在している形式に接近してしまっている可能性があるのではないか。それは短歌というのは留めようがないものである、という内在性であり、定型によって留めおかれているものは実は幻想かもしれないという〈興奮〉である。
「バイリンガル・エクサイトメント」とでもいうべきものがある。……バイリンガルであるために、元の言語と翻訳する言語とのズレ、その境界に立って興奮し、言葉が非常に際立っている。ある通常ではないエネルギーがそこから発散されているのが分かる。
(「『万葉集』の時代」『我的日本語』筑摩選書、2010年)
リービさんは言葉と言葉の〈境界〉に立ったときに言葉が屹立するしゅんかんを〈バイリンガル・エクサイトメント〉と呼んでいるが、通常の言語意識とは異なる短歌の意識と通常の言語意識がクラッシュするしゅんかんには、いつもこの〈バイリンガル・エクサイトメント〉がたちあらわれているのではないか。それは言語の興奮である。
短歌を読むということは、言葉に興奮するということなのではないか。こうふん。わたしは、いま、こうふんしている。
(「『万葉集』の時代」『我的日本語』筑摩選書・2010年 所収)