2017年6月23日金曜日

続フシギな短詩130[パパ(ほんだただよし=本多忠義)]/柳本々々


  ふんもえさもどちらでもいい子が迫る木陰で喘ぐ羊の鼻に  パパ(ほんだただよし=本多忠義)

「父親の視点からの短歌のみを収めた」ほんだただよし(本多忠義)さんの近刊歌集『パパはこんなきもち。~こそだてたんか~』。

特徴的なのは、著者プロフィールの著者名が「パパ」になっていることだ。これは短歌史において初ではないだろうか。

つまり私はこういうことだと思うのだ。ほんださんは、みずからの作者性の個性をさしおいたとしても「パパ」性の方を重視し貫いたのだ、と。私は「パパ」とはこういうものではないかと思った。〈わたし〉を捨てようと思えば捨てられること。それが「パパ」だ。

ところが「パパ」は、すべてを投げ捨ててただ「パパ」でいるわけではない。「パパ」の表現というものがそこには立ち上がってくる。「パパ」だけができる表現が。

掲歌をみてほしい。ここには言説が混じり合う様子がうかがえないだろうか。「ふんもえさもどちらでもいい子」という語り口は〈こどもの言説〉である。こどもの視点に寄った語り口だ。「パパ」はこどもの内面に入り込んでいる。しかし「迫る木陰で喘ぐ羊の鼻に」は〈大人の言説〉である。「木陰」や「喘ぐ」などは〈こども〉の言説ではない。これは大人の内面である。

この歌では〈こどもの言説〉と〈大人の言説〉が混じり合っているのだ。パパの言説とはそういうものではないだろうか。

パパが立っている位置性というのは、こどもの内面に寄り添いながらも、そのこどもをまなざしているパパとしての内面も同時に成立させる。それが〈パパ〉なのではないだろうか。

ほんださんが「パパ」という語り手になったとき、ほんださんは〈パパ言説〉を発明した。それは、こどものことばと大人のことばが混じり合った〈パパのことば〉だ。

わたしたちは、わたしたちのいま・ここにしか立てない。でもそのいま・ここでわたしたちはあたらしいことばのつむぎ方をはっけんすることができる。

いまは、いつも、とおくだ。

でも、わたしたちはしゃぼんだまのようなそれをつかまえ、かきとめる。

かきとめて、いまを、うたにする。

  たまちゃんのパパの気持ちが分かるほどきらめく娘の頭のシャボン  パパ(ほんだただよし=本多忠義)


          (『パパはこんなきもち。』書肆侃侃房・2017年 所収)