2017年6月27日火曜日

続フシギな短詩135[村井見也子]/柳本々々


  少し猫背になってやがて近くにいる  村井見也子

よく現代川柳は〈問答〉の構造から解釈されることが多い(これはもともと川柳という文芸が題を与えられてそこに答えを〈付〉けることから来ている、「問」われて「答」える)。たとえば、

  薔薇を切る日はネクタイをする  小池正博

これを〈問答構造〉でみてみると、

  問い:薔薇を切る日は?

  答え:ネクタイをする。

ということになる(ちなみにこうした問い+答えのような構造的連なりの分析としては、小池さんの川柳を連句の圧縮から分析した浅沼璞さんの考察がある。参照『俳句・連句REMIX』東京四季出版、2016年)。

たとえばこないだの、

  悲しくてあなたの手話がわからない  月波与生

も、

  問い:悲しくて?

  答え:あなたの手話がわからない。

そもそもある題を与えられてそれに応じて句をつくるというのは現代川柳では今でも盛んなので〈問答構造〉で読み解けるものもたしかに多いのだけれど、ときどき、現代川柳の性質として、〈問答〉の外部をゆくような〈ぼうっとした認識〉を描く現代川柳がある。私はそれもまた現代川柳の醍醐味なのではないかと思って、気にしている。たとえば以前取り上げた佐藤みさ子さん。

  生まれたてですとくるんだものを出す  佐藤みさ子

〈答え〉というよりはむしろ〈問い〉にもなっている。なんなのか、と思う。くるんだ「生まれたて」を出されてどうすればいいのか。或いはこれはもう〈答え〉なのかもしれない。〈答え〉られてしまったから〈答え〉られないのかもしれない。でも、「生まれたてです」と問いをつきつけられてもいる。目の前に「出」されて。やけに具体的なのにやけに抽象的でもある。具体的にぼうっとしている。

もういつもそうなので断らなくていいのかもしれないが、長い遠回りをしたが、村井さんの掲句。

  少し猫背になってやがて近くにいる  村井見也子

とっても具体的だ。どんなふうに〈それ〉がわたしに近づいてきたが、とても詳細に、ていねいに、描写されている。まず〈それ)の伸びていた背が「少し猫背」になった。それからしばらくは〈それ〉は「少し猫背」のままでいたのだが、しばらく時間がたって〈それ〉は「やがて」わたしの「近くに」やってきた。そして、今、〈それ〉はわたしの「近くにいる」。

でも、なにが?

〈それ〉って、なんなのだ。

非常に具体的なのに、非常に抽象的だ。

みさ子句と同じように、「生まれたてです」といわれたものが、「やがて近くにいる」ものが、わかんないのだ。

わかんないんだけれど、《切実なのだ》ということはわかる。だってすごくていねいに描写されているから。でも、わかんないのだ。

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤

現代川柳ではもしかしたら「のり弁」という答えを出さないんじゃないか、とも思う。七七は「のり弁」であり世界の答えなのだが、その「これはのり弁」を現代川柳は手に入れられず、しかしその手に入れなさを《ぼうっとした認識》として昇華した。ていねいなぼうっとした認識として。

現代川柳は、ていねいに、ぼんやりしている。

わたしは、とても、そんな、き、がする。

  食べて寝てこわいところへ降りてゆく  村井見也子


          (「荒れじまい」『月見草の沖』あざみエージェント・2017年 所収)