ビリビリと剥がされてゆくコンビニのおでん Sin
Sin さんの川柳を読んでいると、ある現代川柳の志向性のようなものが見えてくるのではないかと私はおもう。
たとえば掲句。「コンビニのおでん」が「ビリビリと剥がされてゆく」のだが、ここで語り手が着目しているのは「剥がされてゆく」ときの「ビリビリ」とした〈擬音〉であり、「コンビニのおでん」の内実ではない。それが、おいしいか、まずいか、安いか、高いか、そう言ったことはどうでもよいことである。
また、「コンビニのおでん」が貼り紙のように剥がされるものなのかどうかといったこともとくに問題ではない。現代川柳の語り手たちはそんなことにいちいち驚きはしない。「コンビニのおでん」という商品物を指し示す記号物=〈概念〉が「剥がされ」るときに、語り手が知覚しているのは「ビリビリ」である。
わたしはここには現代川柳の語り手のある顕著な特徴がしっかりとあらわれているのではないかと思う。その1、世界や概念のルールの変更に驚かないこと。その2、内実ではなく、外郭を浮き彫りにすること。
「コンビニのおでん」が剥がされてもそれは驚くべきことではないし、むしろ「コンビニのおでん」を語るときに現代川柳の語り手は「コンビニのおでん」が貼り付けてある〈外〉としての外部を語るということである。
これをこんなふうに言い換えてもいいかもしれない。現代川柳がやっているのは基本的に〈概念を剥ぐこと〉であると。
そうやって机は使うもんじゃない Sin
この句では「じゃあどうやって使ったらいいの」は決して語られない。ということは、〈どう〉机を使っても、この句は「そうやって机は使うもんじゃない」と発話し続けるということだ。だからこの句のコンセプトをあえて言うならこうだ。《机の概念を剥ぐこと》。
現代川柳は概念を剥ぐ。概念を与えない。付与しない。暴力的に剥ぎ取っていくだけだ。だから現代川柳はなにも生み出さない。むしろ〈生み出さない〉ことを生み出す。
だから現代川柳はいつも「さいご」までは行かない。いやもし行くとしたらとってもチープなものを《あえて》「さいご」にもってくる。〈すかす〉ことで終わらせないのである。だからどっちでも意味は同じことなのだが、現代川柳にはいつもふたつのエンドが用意されているだろう。
「さいごまでいけな」い超越的エンドか(「呪文」=ファンタジー)、とってもチープな世俗的エンドか(「消費税」=世俗)。
さいごまでいけなかったのはじゅもんのせい Sin
盗撮の最後に映る消費税 〃
(『おかじょうき』2016年4月 所収)