満堂の閻浮檀金や宵の春 夏目漱石
これほどまでにストレートな褒誉は読んでいて気持ちがよい。
英国留学中に高浜虚子に宛てた書簡に記された句で、「当地の芝居は中々立派に候。」とある。
会場内に満ち溢れる閻浮檀金(えんぶだごん)。仏教の経典中にみられる想像上の金で、金の中で最もすぐれたものとされているらしい。舞台上だけなのではなく「満堂の」なのだから、客席までをも取り巻く雰囲気全てが「立派」なのだろう。舞台上の人々の衣装や、観客の着飾った姿も思い起こさせる。称賛は「宵の春」にも表れている。終演が丁度宵のころだったというだけにとどまらない。芝居の世界、空気感からまだ抜け切れないまま身体だけが現実に引き戻されたような、芝居終わりの独特の気持ちが、春の朧気な空気感と響きあい、また宵という時間帯、このマジックアワーがさらに非現実と現実の織り交ざった不思議な空間を演出している。「宵」ではなく「春」というさらに漠然とした鷹揚な語で句を終えたことで、この空間が一句全体のみならず、この句を鑑賞する者をも包み込むようだ。
「春の宵」「鞦韆」を春の季語として定着させた蘇軾の詩『春夜』。その第一句「春宵一刻直千金」というのを直に漱石は感じているのだろう。
とはいえ、『明治座の所感を虚子君に問れて』や『虚子君へ』で漱石が述べているように、日本帰国後に見た歌舞伎に関してはあまり気に入らなかったようで、それでも虚子が芝居見物に引っ張り出してようやく「能は退屈だけれども面白いものだ」(『漱石氏と私』)と興味を見せたようだ。
たぶん、漱石が能を誉めるような内容の句を作ったとしても、「閻浮檀金」なんて華やかな言葉は使わないに違いない。いや、漱石じゃなくても、「満堂の閻浮檀金」なんて表現を日本の演劇に使うのは相応しくない気がする。
漱石の、能に対する「退屈だけれども面白い」という評、また、歌舞伎に関して、その構造が滅茶苦茶だと言わんばかりの批評をしながらも多少の興味を見出した「形の上の或る発達した美しさ」。ある意味で正鵠を射ているのかもしれない。
西洋の芸能と日本の芸能との本質的な違いが、こういうところに見え隠れする。
《出典:高浜虚子『漱石氏と私』(1918)》