ちらちらと燈が楽しんで雪の斜面だ 北原白秋
作者が白秋であることを認識した上で、スキャンダラスな逢瀬の場面に見えてしまう。
雪の斜面を恋人と抱き合って転げ落ち、それを街燈が照らしている…。なので<ちらちらと>であり、「楽しんで」いるのである。純心な人なのですぐ人を好きになり、スキャンダラスな人物として世のさらし者になってしまったのだろう。その素直さが「この道(…この道はいつか来た道…)」「あめふり(あめあめふれふれ…)」などの数えきれない童謡を作り出し後世に名を残す作詞家となるのだから、純心とは綺麗で恐ろしいことでもあるのだ。
この句、五七七で切れ字がない(厳密には切れはあるともいえる)。破調であり散文的なのだが、結果、魅力的な句として読者を楽しませることができる。なんというのか、詩人の本領が<ちらちらと>伝わってくるからかもしれない。
しかし「だ」が無くても<雪の斜面>に感動の主眼を置けると思うのだが、そこは「白秋」のプライドの高さというのか、自己主張のための「だ」ではないかと思える。というか、「だ」を取って「雪の斜面」で留めたとしたら阿部完一句と見間違うほどだ。「で(de)」がきて「だ(da)」で締めくくる濁音の二度使いが俳句という「型」への挑戦、名声を手にした者の作為的な面も感じられる。
白秋の俳句制作期間は大正10年から昭和2年までの限られた期間だったようだが、白秋の俳句は主に自由律として残されている。臼田亜波とも交友があ。この句の<ちらちらと>の同じ言葉の繰り返しを使用するところは、やはり臼田亜波とも通じるところがあるのだろう。
冬の蝶さてもちひさくなりつるよ
降れ触れ時雨小さき木魚をわれたたかん
<『竹林清興』昭和22年靖文社>