毬つけば男しづかに倒れけり 吉村毬子
毬をついて遊んだのは、私ぐらいが最後の世代だろうか。立ったりしゃがんだり、唄に合わせてリズムをとったり、途中で投げ上げたり足の間を通したり。本来なら袂にくるむ決まり動作は、私たちの頃にはすでにスカートでくるむ、とアレンジされていて、間違いなくパンツが見えてしまう、というその毬つきの所作は、大人びてくると次第に恥じらうものであり、自然に毬で遊ばなくなる、その契機ともなっているようだった。
「毬」という言葉からは少女が連想されるが、それがそもそも正月の少女の遊びであったことばかりでなく、その翻る袂や袖口から覗く白い腕、そして昭和期の見え隠れするパンツのイメージによる。その遊びは、少女に性を意識させ、大人への目覚めをひそかに促すものであるのかもしれない。
今日の句の、「毬」と「男」は、何の因果関係もなく置かれながら、不条理劇の一コマのような強い印象を残す。唐突に、植田正治の砂丘をテーマにした写真を思い出す。そこには少女たちを写したものもあった、スカートの、濃い色のプリーツ。
○○すれば▽▽、という確定あるいは恒常条件の上五からの接続は、俳句では上五の条件付け、意味を限定し句の狙いが見えてしまうとしてあまり歓迎されない形だが、「風が吹けば桶屋」的な一見まったく意味をなさない条件付けはときに不可思議な面白味を引き出す。この句の場合は、計り知れない怖さをも生み出しているようで。少女が毬をついたことで、無関係に立っていた男が突然倒れる。か弱く幼げな少女は何も手を汚さずに、男を倒したのだ。もしかするとかすかな笑みをうかべて。もちろん、少女に読みを限定するわけではない。毬をつく行為者が、男性でも成人女性でもいい。どんな行為者であっても、この句は成り立つしそれによって句の価値が変わるわけではない、が、少女という強烈な連想は捨てがたい。
少女という言葉だけで、たいていの男女は何らかの反応を多かれ少なかれ示す。それは本能的な、条件反射に近いものなんだろう。少女が、それに気づいていないわけはない、無意識の好奇心に対する嫌悪、純潔さゆえの残酷さ。自らの処女性を優位なものと認識したうえでの傲慢さ。ステレオタイプな少女像の凡百の俳句とは一線を画す。谷崎の「奈緒美」が、凌辱される側から次第に支配する側に回っていったように、どんな少女も秘めている、「ナオミ」への変貌が予感される句だ。
ふらここの半円の幸せに酔ふ 吉村毬子
水底のものらに抱かれ流し雛
飲食のあと戦争を見る海を見る
物乞ひの風の折り方数へ方
万華鏡島国はまた石を積む
朝櫻傀儡は深くたたまれし
野分以後吼えるものなき以北かな
(『手毬唄』 2014年文学の森 所収)