2015年1月27日火曜日

1スクロールの詩歌  [加倉井秋を ] / 青山茂根


裸のわれ抽斗あける吾(わ)とおなじ    加倉井秋を

自分の身体から、魂が浮遊している句だ。時間軸のずれも、面白い。まず「裸のわれ」があり、そのわれが抽斗をあけたのだが、一瞬意識が飛んだあとのように、行為者が自分の肉体と同一であることを再認識している。作中主体をも一度疑うようで、昭和30年に書かれた句ながら今読んでもナンセンスな新しさを感じる。

 「風」は、小型「天狼」といった感じだが、ここでいちばんおもしろい作家は、加倉井秋をである。 
(中略) 
この作家は、日常意識の欠落個処に、ふいに見慣れない造形をこころみる。だがこの作業には、天性のするどい知覚が要求されているはずで、この不意打が、いつも新鮮な詩的衝撃を与えるのである。 
(『現代文学大系 第69巻 現代句集』月報69 「俳句と私」村野四郎 筑摩書房 s43)

前々回で、青年時代の自由律俳句を取り上げた、詩人村野四郎はこう書いている。「私は、詩人になる前に俳人であった。」「この俳句という狭い土俵の中で勝負をするために、言葉を大事にすることが、どんなに大切かということを痛いほど教え込まれた。」そんな村野が加倉井秋をを評した言葉に、そういえば秋をは東京美術学校(現芸大)の建築科を卒業しているのだ、と思い出す。絵画や写真といったものに例えられる句とは違い、秋をの俳句は言葉を縦横に構築していく印象がある。ときに骨組だけであったり、石積みだったり。色彩を塗りこめたりアングルを計算した句とは違う、おおらかさや素材の意外性が楽しい。
  
 言葉はタダだからといって、むだ使いしているかぎり、いつまでたってもロクな詩がかけないということ、いや本当の詩語というものは、ものすごく高価につくものだという考えは、今もって少しも変わっていない。

(前掲書 「俳句と私」村野四郎 より) 
  折鶴のごとくに葱の凍てたるよ       加倉井秋を 
  曲がることなき毒消売の道 
  ある晴れた日の繭市場思い出す 
  蠅(はい)生れて以後と以前とをわかつ 
  葡萄棚より首出してつまらぬ世 
  母亡き正月土管があればそれを覗き 
  秋は素朴な河口暮しの対話から 
  冬来ると足裏見せあつて話す

(『自註現代俳句シリーズ第二期⑪ 加倉井秋を集』 俳人協会 s56)