風に吹かれて蜘蛛来るあなたの耳もくる 松岡貞子
耳は詩になる身体部分なのだろう。私の耳は貝の殻…のあの一節を思い、そう思う。
Mon oreille est un coquillage
Qui aime le bruit de la mer
( Jean Cocteau, Cannes V )
私の耳は 貝の殻
海の響を懐かしむ
( 堀口大學 訳 )
掲句、恋人同士の待ち合わせのように思え、おしゃべりな作者と聞き役の彼を想像した。しかし、まだここは、「くる」としているのでまだ来ていない。もしかしたら死んでしまった、あるいは別れた恋人に話を聞いてほしくて懐かしんでいるのかもしれない。更にこの「あなた」、今、この句を見ている読者のことを指しているとも読め、夜の静けさの中に、ふっと心地よい風が吹き、作者に誘われ暗示にかけられている気になる。少々怖い句でもある。
初めに作者が期待するのは「蜘蛛」で、風に吹かれて本当に「蜘蛛来る」のかの疑問は残るが、蜘蛛が意思を持ってやってくるように思える。「来る」と「くる」が重なるので作品として味がある。
まだ蜘蛛もあなたも来ていない、風も吹いていないかもしれない、しかし作者が室外ににひとりで立っている情景がわかる。そして、淋しいとは感じていないことが伝わる。それは作者にとっての「あなた」という存在があるからなのだろう。しかし、待っているものが来なかったらどうなるのだろう。やはり怖い句である。
掲句は、かの「俳句評論」同人誌から見つけた。各同人への短い作品評を三橋敏雄が書いている。敏雄は逢瀬と捉えている。
手元の字引で「媾曳」(筆者注:あいびき)を見たら、「男女の密会」とあってびっくりした。密会はどぎつい。仏蘭西語ならランデヴーだが、いい日本語訳はないものか。このような句のために。
同人作品評:三橋敏雄
<「俳句評論90号」昭和44年(第83・84号 同人作品評より)>