大工ヨゼフ忌日知られず百合の花
勿論、この大工ヨゼフは、聖母マリアの夫ヨゼフである。このヨゼフの行動は、福音書にはほとんど出て来ない。マリアの受胎の後、夢を見た事(マタイ1・18-25)、身重のマリアを連れて、住民登録の為にベツレヘムへ行った事(ルカ2・4-5)、ヘロデ王を避けて聖母子と共にエジプトへ遁れた事(マタイ2・13-15)、ヘロデ王の死後、イスラエルに戻り、ナザレに住んだ事(マタイ2・19-23)、過越の祭に聖母子をエルサレムに連れて行った事(ルカ2・41-51)。そのくらいであって、忌日どころか、ある時点から忽然と聖書から消えてしまう。
しかし、イエス生誕の前に、ヨゼフは最も重要な働きをしている。この働きなければ、イエスは恐らく世に生まれていない。
『イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を生みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。』
(マタイ1・18-25)
当時の律法では、姦通は石打ちの刑であったという。実質、死刑に等しい。処女懐胎が奇跡である以上、世間はヨゼフの子でなければ姦通の結果と見なすだろう。世間は奇跡を信じないものだ。即ち、もしヨゼフが、面子を潰されたと事を荒立てるような男であれば、マリアは婚約中に不貞を働いたとして石で打たれる。だから、事を公にしようと思わなかっただけでも、ヨゼフは相当に偉い人であるが、更にマリアと婚姻し、イエスを自分の子として育てた。これは天使の夢のお告げが無くとも、ヨゼフはいずれ、そう決断したような気がする。なぜなら、姦通の罪を厳しく糾弾されるような社会にあって、おぼこ娘で気の利いた言訳など何もできないようなマリアが実家に帰され、大きくなってゆくお腹を抱えて、穏やかに暮らせるわけがない。ヨゼフが黙って婚姻する以外、マリアが出産までを平穏に暮せるはずがないのだ。
だから、ヨゼフの形容として記される「正しい人」なる言葉は、誠に重い。如何に自らを空しくして、恋人を護るか。夢に現れた天使は、ヨゼフの良心の具現、義の顕現と重なるのではないか。人の為に律法があるのであって、律法の為に人があるのではない、そう分かってはいても、律法が支配する社会にあって、「律法を超える正しさ」を密かに貫くのは大変な意志力だ。それは律法よりも強靭な優しさであり、恋の極みであり、慈しみの極みである。ヨゼフを漢の鑑といっても良い。
ヨゼフは、ごく普通の人であったろう。何も奇跡を起こさず、その臨終の様も忌日さえも伝えられなかったが、恐らく福音書中、最も偉大な一人であろう。ヨゼフの無私の決断なくして、マリアのその後の人生は無く、イエスの生誕も無かったからだ。そして、ヨゼフは終生、自らの偉大さを全く意識しなかっただろう。彼が聖人に列せられたのは、ずいぶん遅かったらしい。労働者の守護聖人であって、シンボルは大工道具と、そして百合の花である。
掲句の上五中七は、市井の慎ましい労働者であったヨゼフの生涯を示している。下五「百合の花」は聖性を示している。そして、上五中七と下五は、等価である。だから、この句は、ヨゼフに託して、ごく普通の市井人に突然花開く聖性を、高らかに讃えているのだ。
「鷹」平成24年9月号。