2015年6月8日月曜日

今日の小川軽舟 46 / 竹岡一郎



線切れし黒電話より黴の声    「呼鈴」 


80年代までは、家庭の電話は普通、黒電話だった。私が学生の頃、東京の部屋で黒電話を使っていた。当時の黒電話は、もう一昔前の聳えるようなフォルムではなく、もっと丸っこい形だった。調べてみると、その数は激減したものの、今でも黒電話は使われているらしい。

掲句の黒電話が何処にあるかは記されていない。どこかの古いアパートの空き部屋に座っているのかもしれぬし、戸外に置き捨てられて廃品回収を待っているのかもしれぬ。或いは、掲句が、句集の平成二十三年の部に収められていることを考えるなら、東北の津波の後の惨たらしい景の中に転がっているのかもしれぬと思う。

掲句は黒電話の置かれている景には一切触れず、ただ、線が切れていて、もう使えない黒電話だけを描写している。だから、ここでは、黒電話はいずれの時代とも場所ともわからない虚無の景の中に打ち捨てられているに等しい。

黒電話にはうっすらと黴が生えている。または、目には認められぬが、実際に手に持ってみたら黴臭かったのかも知れぬ。そこにレトロな忘れられた雰囲気を味わうのも、一つの鑑賞だろう。この場合、「声」は、雰囲気、或いは書画を評する時に用いる「におい」を表わしていると取れる。

また、実際に黴のささやく声を聴いたというのも、一つの鑑賞である。黴は生きていて繁殖するのだから、全くの無音ということはない。人間の耳には聞こえないレベルの音というだけだ。その黴の声を、時代に置き捨てられた懐かしさと見るも良し、だが、時代に忘れられた怨みと見る事も有りだ。
黴は一見無害に見えるが、或る種の黒黴は、その胞子が人体に有害であって、例えば、部屋の壁の裏などにびっしりと繁殖した黒黴は、絶えずまき散らすその胞子によって、住人の肺を侵し、死に至らしめる事も有るという。掲句の電話の黒色に、黒黴に託した怨みの有害さを思う事も可能だ。

更に、下五の「声」に注目するなら、電話とは人の声を中継し、会話を取り持つための器械である。何千、何万遍と手に取られ、語りかけらけ、耳を傾けられた黒電話は、膨大な量の声を中継してきたわけで、それは人の膨大な思念を堆積して来たに等しい。

付喪神というのは、九十九年永らえた器物が物の怪と化すのだが、そこまで時を経なくとも置き捨てられた器物は化けるという。電話が化けるとすれば、長年堆積して来た人間の念がその核となる筈で、化けた電話が自らを表現する手段は、ベルを鳴り響かせるか、或いは受話器から慎ましく声を垂らすかであろう。掲句の電話は更に慎ましく、自らの身に繁殖する黴に、己が声を託している。
「黴の声」とは、実際に繁殖する黴の存在表明であり、打ち捨てられている電話という器物の存在表明でもあり、かつてその電話を介した人間の声と思念の存在表明でもある。そうなると、黒電話の色は、繁殖したい黴の思いであったり、化ける他ない器物の思いであったり、人間の過去の声や思念だったりする。そういう堆積の渾沌を、黒という色に観ても良い。

昔流行った電話の怪談といえば、引っ越してきたアパートの一室に黒電話が捨てられていて、線が切れている筈なのに、夜中に鳴ったりする。よせばよいのに、電話に出てしまったりして、受話器から女の恨み言が聞こえたりする。そこから色々バリエーションがあって、早々に部屋を引き払うが、引っ越した先にまた黒電話が転がっている、或いは新居の新しい電話からしつこく幽霊の声がする、自分は引っ越さずに電話を向かいの電柱の下に捨てるが、近所迷惑にも夜中に路上で鳴り響く、あるいは仕事から戻ると、捨てた電話が勝手に部屋に上がり込んでいる、と、まあ、様々な工夫が凝らされるわけだが、この怪談の芯は、置き捨てられ顧みられることの無い思念の、相手構わず縋りたいほどの孤独である。掲句の場合も、その芯となるのは、廃品と化した黒電話の孤独である。その孤独のか細さを、作者は「黴の声」と聴き取る事により、掬い上げたのであろう。

平成二十三年作。