森出でてなほ林ある鹿の子かな 「手帖」
森の道をゆくうちに前方の視界が開けて来て、明るくなる推移を詠っている。林には光も風も透る。森という半ば閉ざされた空間が嫌なわけではないが、少し視界が開けてほっとした。だが、木々の香りはまだ名残惜しい。その名残をいたわるように林というまばらな木々が広がっている。そんな心情である。
「なほ」が利いている。「林ありける」だと、森と林は分断されてしまう。「鹿の子」が眼目だ。物に怯えやすく、だが好奇心旺盛な小鹿が頼りなくゆっくりと歩いてゆく。小鹿はやはり森を出て林の中を歩いているのであろう。ここで作者は小鹿と歩みをともにしているというよりは、小鹿の心情に寄り添って景を見ている。
漸く歩けるようになり、世界の何もかもが新鮮に見えている小鹿の、その感覚で、森が林へとよどみなく移行してゆく様、視界が開け、森よりは風や光が大きくなってゆく様を享受する。緑の匂いを感じる濡れた鼻先、敏感に辺りの音を捉えて立つ耳、大きな瞳や細い四肢、小鹿の全身は、その五感で以て、森から林へと移り変わる様を敏感に受け取る。その喜びが作者の歩みと重なるのである。平成14年作。