-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年5月9日火曜日
続フシギな短詩109[ひとり静]/柳本々々(ウィローブック・ウィローブック)
おじゃまにはならないポだと思います ひとり静
先日のイベント「川柳トーク 瀬戸夏子は川柳を荒らすな」の十句選の一句でわたしは飯島章友さんの
毎度おなじみ主体交換でございます 飯島章友
をあげたが、わたしは現代川柳ってこういうことなんじゃないかなと思っている。
「主体交換」という言葉だけだったら、それは思想的・哲学的な話題である。わたしたちはふだんの会話や電話で「主体交換」ということばを出さない。日常会話でそんなことばを使ったら、きらわれちゃうからだ。難解すぎる。「もしもし、あのね、主体交換がね」とは、言わない。
でも現代川柳はこうした哲学的言辞を〈あっさり〉使う。しかも、だ。「毎度おなじみ~でございます」という〈ちり紙交換〉の卑俗な言説のなかに〈それ〉を埋め込んでしまうのだ。
そうすると、それは、哲学や思想、でもなくなるかもしれない。というか、なんなのだこれは、ということになる。いったいこれはなにがおきているんです、と。
〈ちり紙交換〉的言説のなかに埋め込まれた哲学=思想。わたしたちは、なんだか、それくらいなら、理解できそうな気がする。もちろん、気がするだけだ。わたしにも、「毎度おなじみ主体交換でございます」と言われてもそれがなんなのかはわからない。毎回毎回「毎度おなじみ」のこととして「主体交換」されてしまう〈わたし〉。わたしは、あした、やぎもともともとでなく、やぎもととととになっているのかもしれないし、やぎもとぽぽぽになっているかもしれないし、やぎもとやぎもとになっているかもしれない、或いは、ウィローブック・ウィローブック(Willow-book willow-book)に。
ウィローブック・ウィローブック。
現代川柳は、わからなそうで・わかりそうなぎりぎりの〈認識の臨界〉を、描く。
長い遠回りをしてしまったが、ひとり静さんの句。
おじゃまにはならないポだと思います ひとり静
「おじゃまにはならない~だと思います」ならわたしたちにもわかる。たとえば、「おじゃまにはならない子だと思います」。これならふだん使うことばだ。電話口でも言える。しかし、そこに「ポ」がようしゃなく入ってきてしまった。この「ポ」は、きびしいし、はげしい。この「ポ」は思想的だし哲学的である。こんなところに「ポ」が入ってしまってはわれわれは対処しようがないではないか。しかし、〈ここ〉に「ポ」が入ってしまう。それが現代川柳だからだ。やっちゃいけないのに・やっちゃった、こと。それが現代川柳である。
この「ポ」は解釈しようがない。解釈しても意味がない。この「ポ」だけに着目しても意味がない。どういうことばのなかに、言説のなかに、「ポ」を埋め込んだか、埋め込まざるをえなかったが大事なのだ。その処理のしかた、手続きのしかたが現代川柳なのである。だから、川柳は解釈に入ってしまってはどこかで負けてしまう。仕組みそのものを描きださなければならない。わたしは今回瀬戸夏子さんの話をききながらそういうことを学んだ。仕組み、なんだと。両手でマイクを握りしめながら、わたしは、うなずく。
「わたしはポの研究者です」と言ったことがある。
しかし、いいえ、だから、現代川柳は、ずーっと、この「ポ」の周囲を徘徊している。この、えいえんに、埋めることのできない「ポ」に対処しようとして、なんびゃくなんまんの川柳人が、現代川柳をつくりつづけている。わたしはそうした〈ただならぬポ〉のフィールドから、安福望に呼ばれて、田島健一に呼ばれて、小池正博に瀬戸夏子に呼ばれて、この春、いろんな場所に、出かけていった。ポ、の場所から、出かけていった。
(『触光』42号、2015年6月号 所収)
2017年5月7日日曜日
続フシギな短詩108[榊陽子]/柳本々々
さあ我の虫酸を君に与えよう 榊陽子
きのうの「川柳トーク 瀬戸夏子は川柳を荒らすな」というイベントで小池正博さんがあげられた十句選のなかの一句。
小池さんはこの榊さんの句に表現されている〈悪意〉に着目した。
悪意。
「虫酸」というのは「胃から口へ出てくる酸っぱい液体」のことだ。ところがこの句では「さあ我の~を君に与えよう」というもっともらしい、高貴な文体のなかに「虫酸」を置くことで、低級なものを高級なものとして相手に贈与する。その低級なものを高級な文体のなかに据え置きながら相手に贈る行為を〈悪意〉とわれわれは呼んで、いい。
現代川柳を読み解くのに〈悪意〉はひとつのキーワードになる。いいえ。それどころか、〈悪意〉は川柳をマッピングするのに絶好のキーワードになる。社会川柳(サラリーマン川柳)と詩性川柳(文学川柳)をつなぐのが〈悪意〉なのである。
たとえば、こんな有名な女子会川柳。
カレよりも課長の夢をよく見てる
彼氏よりも課長の方が好きで課長の夢をよく見てしまう。これは「彼氏」への〈悪意〉である。あるいは、愛への悪意である。もしくは職場で課長と接する機会があまりに多く、課長が夢にまで出てきてしまう、そういう職場批評の句として詠むなら、職場への悪意である。
こんな有名なシルバー川柳。
誕生日ローソク吹いて立ちくらみ
誕生日にろうそくの火を吹き消すとシルバーなみずからの身体はその息のエネルギーでさえたえられずに「立ちくら」んでしまう。これは老いた自らのシルバーな身体への悪意である。
わたしたちは、サラリーマン川柳と詩性川柳をときどき別のものとして分断=棲み分けしようとしたがるが、しかし〈悪意〉というキーワードは、橋渡しになる。
今回のイベントもそうだったが、どういう枠組みやタームを用意するかで、マッピング=精神地図のありかたは変わってくる。どこから・だれが・どんなふうに見るか、で。
榊陽子さんの川柳における〈悪意〉はそのひとつの答えを提示してくれている。
小池さんは
たてがみを失ってからまた逢おう 小池正博
という句を紹介してから、榊さんの
たてがみが生えてきたから抜いている 榊陽子
という句を紹介した。これをわたしは小池正博句への〈悪意の連鎖〉としてみても面白いかもしれないと思う。「たてがみを失」うと「逢」えるのだが(たてがみを失え、去勢されろ、というのはそれ自体ひとつの悪意である)、しかしその「失」えるかもしれない機会そのものを榊句は解体してしまうのだ。「生えてきた」そばから「抜いて」しまうのだから。
去勢そのものを、去勢してしまうこと。悪意そのものを、悪意として解体すること。
新しい川柳とは、なんだろう。
それは地図を描くためのターム=鍵=ペンを手渡してくれることではないだろうか。榊陽子の川柳が新しいのは、その鍵をわたしてくれるからではないかとおもうのだ。
早春のごはんを作る事故現場 榊陽子
(「ユイイツムニ」『川柳サイド』私家本工房・2017年 所収)
2017年5月3日水曜日
DAZZLE HAIKU 1 [安倍真理子]渡邉美保
浮きあがる水平線や種袋 安倍真理子
穏やかな春の日差しを反射して、海はきらきら光っている。遠くの水平線は、徐々に膨らみ、浮き上ってくるように見えることがある。
そこに置かれた「種袋」という季語の意外性。この種袋は、花屋に並ぶカラフルな花の種袋ではなく、畑で農作物を植えるための種の入った武骨な種袋。春の訪れとともに始まる農作業を象徴している。種袋の中で、種子は、開花や収穫の期待感に大きくふくらみ、ひしめき合い、ざわめいているだろう。
海の見える畑の、農作業の明るさや喜びが伝わってくる一句である。
<東京四季出版「俳句四季」2017年4月号>
2017年5月1日月曜日
続フシギな短詩107[佐藤みさ子]/柳本々々
生まれたてですとくるんだものを出す 佐藤みさ子
樋口由紀子さんは『MANO』終刊号を鴇田智哉論で終わらせたが、それでは小池正博さんはどうだったのだろう。
小池正博は『MANO』終刊号を佐藤みさ子論で終わらせた。
樋口さんが鴇田さんに見出したのは言葉から生まれざるを得ない作家性だったが、小池さんは〈終わりの風景〉のなかでみさ子さんのなかになにを見出したのだろう。
「佐藤みさ子-虚無感とのたたかい」と小池さんの論考タイトルが示すように小池さんにとってそれは、何かを積み上げてはたえず解体されるものとのたたかい、かも知れない(小池正博は書きながらその書いていることをたえず解体していく川柳作家でもある。小池正博はたえず口にする。「川柳をどう読めばいいのか」、「川柳論はどう書きうるのか」、「川柳はわたしを支えてはくれない」と。しかしそれでも川柳に対して地図を描こうとしつづける。それが小池さんの位置性である)。私がこの論考を読んで興味深かったのが、小池さんがみさ子さんの川柳を読むにあたって参照したみさ子さんの文章である。『セレクション柳論』に収められている「裁縫箱」をめぐる文章。
ふしぎな文章で、小学生の「私」は友人から「セルロイドの赤い裁縫箱」をある日とつぜん「贈り物」としてもらうのだが、「私」はうれしがるどころか「私の何かが否定されたような気」もちになってしまう。この「他者への困惑」を小池さんはみさ子論の出発点においている。
人は他者との関係で生きてゆかなければならない。……自己のもっている大切で譲れないもの。それはしばしば周囲の価値観と抵触するが、他者や社会との関係性のなかで、自己を失わず、かといって周囲といたずらに敵対するのでもなく、冷徹に世界と人間の本質を見すえてゆくところに佐藤みさ子の川柳眼がある。
(小池正博「佐藤みさ子-虚無感とのたたかい」『MANO』20号、2017年4月)
小池さんの引いた文章を読んだとき、あっと思ったのだが、たしかにここにはみさ子さんの特異な位置性があらわれている。
たとえばこれを川柳行為として考えてみよう。川柳は「付句」がルーツであるように、なんらかの題や問いかけに答えを「付」ける文芸である。たとえば「花や蝶の模様がつい」た「赤い裁縫箱」を「贈り物」としてもらったときに、その〈贈与〉に対して〈嬉しい〉と〈わたし〉は「付」けることができただろう。そう、答えることもできただろう。
しかし、佐藤みさ子は〈贈与〉に対してそういうふうに「付」けることはしなかった。
明日になれば○○さんからもらった赤いセルロイドに糸やハサミを入れて学校へ行かなければならない。私の何かが否定されたような気がした。人がそれぞれ違う価値観を持っていることに、その時初めて気がついたと言えば大げさだろうか。…私は無口で暗い子供だった。そして私は今もなお、赤い裁縫箱をかかえたまま、途方に暮れている。
(佐藤みさ子「虚無感との闘い/裁縫箱」『セレクション柳論』2009年、邑書林)
佐藤みさ子は〈贈与〉に対して〈答〉えていない。佐藤みさ子は「今もなお」「途方に暮れている」。むしろ、そうした〈困惑〉を新たな〈問い〉として生産し、その〈問い〉を「今」も「赤い裁縫箱」として「かかえ」続けているのだ。
つまり、佐藤みさ子は〈問い〉に〈問い〉を「付」けたとも、いえる。そういう〈答〉えかたをしたのだ。
掲句をみてほしい。「生まれたてですとくるんだものを出す」。ひとつの世界に「付」けられた〈答え〉ではある。世界からの贈り物。赤ん坊でも今もらったばかりの「赤い裁縫箱」でもいい。「生まれたててですとくるんだものを出す」。しかしこの答えはかんけつしていない。「くるんだものを出」された〈わたし〉はこれからどうすればいいのか。その問いが内包されている。〈わたし〉も〈あなた〉もどうするのか。生まれたてのくるんだものをだきしめるのか。それともだきしめないのか。笑ってやりすごすか。ひきつった顔をするのか。においをかぐのか。ぬくもりをしるのか。きょうふするのか。途方に暮れるのか。
「生まれたてですとくるんだものを出す」行為は、ひとつの〈贈与〉である。しかし、それは友人からだしぬけにもらった「赤い裁縫箱」のように、わたしに〈問い〉を投げかけるものでもある。そしてその〈問い〉は各人が生きようとする位置性によって、ちがうのだ。
言葉だけ立ちふさがってくれたのは 佐藤みさ子
言葉はそうした問いと答えが錯綜していく状況を〈交通整理〉していくかもしれない。しかしこの「言葉だけ立ちふさがってくれたのは」が〈言語行為〉として機能しはじめたとき、この言葉をめぐる句は、この言葉をめぐる句を裏切ってしまうんじゃないかという緊張感もある。なぜなら問いを生産し〈そうではない〉ありかたへとひらいていくのもまた言葉だからだ。佐藤みさ子の句は、佐藤みさ子をうらぎるかもしれない。
佐藤みさ子にとって言葉=川柳は、みずからの生のありようを〈整理〉してくれるものであると同時に、裏切っていくものでもあったのではないか。しかし、だから、書き続ける。まだひらいていない、ひろげたことのない本をめぐって。
ひろげた本のかたち死というものがあり 佐藤みさ子
そういえば小池正博はこんなふうに佐藤みさ子論をしめくくっていた。
私も「虚無感」とたたかってゆくつもりである。
(小池正博、前掲)
たたかう、という行為は、世界からの問いかけにたいし、問いかけをはらみながらも答えることではないか。それは、ながい、たたかいになる。性急にこたえてしまうことを、がまんしなければならないからだ。言葉でいくらふさいでも、その言葉は行為となって言葉をうらぎっていく。ほんとうに、ほんとうに、ながいたたかいに、なる。
(「5月 佐藤みさ子」『あざみエージェントオリジナルカレンダー』あざみエージェント・2016年 所収)
2017年4月30日日曜日
続フシギな短詩106[樋口由紀子]/柳本々々
軽症だから道の真ん中を歩く 樋口由紀子
以前、そんなに遠くはない昔に、
むこうから白線引きがやって来る 樋口由紀子
という樋口さんの句の感想を『週刊俳句』に書いたことがある。それは「境界破壊者たち」というタイトルだった。
そのときはまだよくわかっていなかったのだが、今もう一度この句について考えてみると、この句で描かれているのは、〈わたしの紹介(しょうかい)〉ではない。わたしがなんとなくそうしなければならないような気がしてそのときそのタイトルをつけたようにここで描かれているのは〈わたしの境界(きょうかい)〉である。《境界例》だ。
「むこうから白線引きがやって来る」。なにかが起こるかもしれないし、なにも起こらないかもしれない。しかし、やって来る以上、「線」は引かれるだろう。引かれてしまった線。わたしが何かしても何もしなくてもその引かれた線によってわたしの行為も変質してしまう。わたしはなにもしなくてもわたしは境界にたたされてしまっている。これは〈わたし〉の問題ではない。句の構造がつくってしまった〈境界〉の問題、そこからいかんともしがたく発生してしまう〈わたし〉の問題である。現代川柳はこうした症候的なわたしを発見してしまったのだ。
そのことに気づいていたのが小池正博さんである。『MANO』(13号、2008年3月)に小池さんは「樋口由紀子・鏡像の世界」という樋口由紀子論を書いている。そこで小池さんは樋口さんの句における「鏡像」をこんなふうに説明する。
川柳の鏡に映る世界と自己の像は、次第に屈折を見せ、独自の変容をとげはじめる。…樋口由紀子は「川柳」という自己投影の鏡を手に入れたのである。けれども、この鏡面自体が一種の歪みをもっていた。そこには「私」の姿が映し出されていたが、鏡に映る像は日常性を超えて非日常的な姿を見せ始める。現実の投影というよりも鏡像自体がおもしろかったのである。
(小池正博「樋口由紀子・鏡像の世界」『MANO』13号、2008年3月)
このとき小池さんのイメージの中には明らかに精神分析家ジャック・ラカンの鏡像段階のイメージがあるのだが、大事な点は現代川柳が鏡像的主体を手に入れたとき同時に〈傷ついたわたし〉も手に入れるということである。
たとえばラカンを知らなくても鏡をみてみるとよい。鏡のなかにはわたしがいる。しかしそれは左右が逆であり、また他者がふだん肉眼でみているわたしとも違う鏡のなかのわたしである。〈そこ〉、鏡にしか〈わたし〉はいないのだが、しかし、〈それ〉は〈この〉わたしではない。だとしたら、わたしの位相はどこにあるのだろう。わたしは分裂し、傷つき、裂けてしまう。鏡の前に立つとは、「むこうから白線引きがやって来る」をそのまま引き受けることになるのだ。
小池さんはこのあとこの鏡像イメージからキャラクター論へと移行していく(しかし斎藤環さんの一連の著作をみてもわかるようにキャラクターとは精神分析的な存在である)。精神分析的言説には深入りしていかなかったのだが、しかしわたしは十年前に小池さんが示したこの現代川柳と精神分析的言説のリンクをとても興味深いと思う。
とっても遠回りしたが、掲句をみてほしい。「軽症」と書いてある。「軽症だから道の真ん中を歩く」と。この句も症候事例的である。「軽症/重症」という境界が示され、どうじに、「真ん中/端」という境界が示される。
わたしは別に現代川柳が病的だと言いたいわけではない。そうではなくて、現代川柳は主体の構造が複雑であり、その複雑さを説明するには、日常的な言説だけでなく、精神分析学のような複雑な言説も参照する必要があるかもしれないということを考えているだけだ。ただし、精神分析学といっても臆することはない。みながみな、精神分析学を生きてしまっている。精神分析学はその意味ではずるい学問でもある。みんなが知らないふりをして知っていることを言葉にしているだけなのだから。
さいきんの樋口さんの句をみてみよう。
空想のかたまりである赤チョーク 樋口由紀子
(「姉の逆立ち」『MANO』20号、2017年4月)
『MANO』終刊号からの一句。「赤チョーク」は「空想のかたまり」として回収されてしまう。しかしその「赤チョーク」が「空想のかたまり」であるということを〈ちゃんと〉認識しているメタな視線もここにはある。「空想のかたまりである赤チョーク」を「空想のかたまりである赤チョーク」とメタ認識できている〈わたし〉。この〈わたし〉は《誰》なのだろう。この〈わたし〉はもはやキャラクターでもないように思う。キャラクターはメタ視線を有しないようにもおもうから(たとえば、のび太がじぶんがのび太であることを自覚したときのび太はのび太でいられるだろうか)。
樋口さんはこの『MANO』終刊号で「言葉そのものへの関心」という鴇田智哉さんの句集評を書いている。わたしはこの樋口さんのタイトルにひとつの答えがあるような気がする。「言葉そのものへの関心」。樋口さんの〈わたし〉とはイメージでも私性でも鏡像でもキャラクターでもなく言葉かもしれない。言葉のシステムから起動/再起動されるわたし。ラカンは無意識は言語のシステムとして構造化されているといった。
言葉から立ち上がるわたし。それは決して虚無的なわたしではない。ドライなわたしでもない。むしろ、言葉を使い言葉にとらわれ言葉をのりこえようとする切実なわたしである。
そしてもっとも肝心なことは、鏡があってもなくても、わたしは、いま、ここに、生きているということなのだ。
生きているといろいろなことに出会い、突き当たる。それらの事を通じて「私」のなかに蠢きだした何か、それを無関係だといって、無視をして生きていくことなどはできない。…書かれたものには、その人が、その人の物の見方が現われる。私はそうでなければ表現もしくは表現者とは言えないと思っている。彼はこの世を諦めない。この世の不条理はどうしようもなく、受け入れがたく存在するが、根っこの部分では人を信頼している。けして諦めないでおこうと思っている。
(樋口由紀子「言葉そのものへの関心」『MANO』20号、2017年4月)
(「樋口由紀子・鏡像の世界」『MANO』13号、2008年3月 所収)
2017年4月27日木曜日
続フシギな短詩105[池田澄子]/柳本々々
ピーマン切って中を明るくしてあげた 池田澄子
田島健一さんが『現代詩手帖』の連載「俳句のしるし」において池田澄子さんの俳句の特徴を次のように指摘している。
氏の作風の特徴は、作者と読者の間に第三者的主体が想定される点にある。…口語独特の呼びかけは、直接読者へではなく想定された「誰か」に向けられる。…
池田澄子は…〈他者〉に向けて「思い」を呼びかける。
(田島健一「「読む主体」について」『現代詩手帖』2016年10月)
この田島さんの指摘した特徴は池田さんのピーマンの句を例にとるととてもわかりやすい。掲句の特徴は、「してあげた」にある。〈わたし〉が「誰か」に「してあげた」のである。「してあげる」でもない。それはちゃんとやってあげ〈た〉なのだ。すでに行為はおわっている。他者のためになにかをし終えたのだ。
池田澄子にとってピーマンとは他者を呼び込むための、オープン・スペースになっている。ピーマンを思い出してほしい。ピーマンの肉詰めというおいしい食べ物があるように、ピーマンの中は空洞になっている。そこに挽き肉を詰め込むこともできれば、発想を変えれば、他者を招き入れることだってできるはずだ。
ここで比較するためにこんな野菜の句をあげてみよう。
玉葱を切るいにしえを直接見る 田島健一
(『ただならぬぽ』ふらんす堂、2017年)
こちらはピーマンではなくタマネギを切っている。玉葱を思い出してみよう。玉葱はピーマンと違い、何層もの「葉」が肥厚し折り重なってできあがっている重層的な食べ物だ。空洞は、ない。語り手は玉葱を「切」ったあとで「いにしえを直接見」ている。まるで時をかける少女のように玉葱を切りながら時間の古層へとアース・ダイブしていく。
とくに「直接見る」の「直接」に注意したい。ここでは〈見る行為〉そのものがふだんのなにげなく見る行為とは少し変質している。語り手の〈見る行為〉そのものになんらかのダイレクトな変化が生じているのだ。
だからもし池田さんのピーマン句とあえて比較するなら、田島さんの玉葱句において他者化されているのは〈見る行為〉そのもの、すなわち〈見ているじぶん〉そのものである。
田島さんは池田さんの句を「想定された「誰か」に向けられる」と指摘したが、田島さんの句は「想定されなかった「自分」に向けられる」のだ。
他者に出会う方法はすくなくともふたつある。ひとつは、わたしの場所に他者を呼び込んでくること。ふたつめは、わたしじしんが他者になってしまうこと。
ちなみに掲句がおさめられた『シリーズ自句自解Ⅰベスト100 池田澄子』の最後に掲載されている池田澄子さんの文章のタイトルは「書きながら出会う」である。池田さんにとってピーマンを切ることも、書くという行為そのものも、他者との〈出会い〉につながっている。
ところで池田さんの句でわたしがずっと何年も考えている句がある。
屠蘇散や夫は他人なので好き 池田澄子
どうして夫が「他人」であったら「好き」なんだろうとずっと考えていた。でも田島さんの時評を通してはじめてわかったような気がする。それは、そのまま、だったのだ。答えはこの句のなかにちゃんと書いてあった。池田さんの俳句は他者とそのつど出会おうとしている俳句なのだ。だから相手はいつでも他者でなければならない。他人でなければならない。夫がもし「他人」であるならば、夫が「他人」であり続けるかぎり、毎日夫に出会える。だから答えはそのままだったのだ。「他人なので好き」。答えは、「他人なので」だからだ。書いてあること、そのままだったのだ。長いあいだ考えていたけれど、やっと、わかった。そう、田島さんが、教えてくれた。
(『シリーズ自句自解Ⅰベスト100 池田澄子』ふらんす堂・2010年 所収)
2017年4月25日火曜日
続フシギな短詩104[介護百人一首]/柳本々々
いつの間に一人暮らしが三人になっているかと母不思議がる 辻田早代美
NHKの番組「ハートネットTV 介護百人一首2017」からの一首。
大阪在住の辻田早代美さん。母親に少し認知症があることがわかり、いまは同居しているという。
辻田さん夫婦と92歳の母親のきみこさんの暮らし。
早代美さんはNHK短歌をみて興味をもち、短歌をつくりはじめたという。
「思ってることをぱっと切り取れる」ことから早代美さんは短歌をつくっている。
わたしは、このフシギな短詩で、なぜひとは〈わざわざ〉短いことばを選択するのだろうと書いたことがあるが、しかし人生の形式によって〈短さの形式〉に出会うこともある。「思ってることを長々と書き連ねていく」形式では、「思ってること」が逃げていってしまう。母との同居生活は、そのつどそのつど〈新鮮なぱっとした思い〉がわきあがる暮らしだからだ。
母との暮らしのなかで、「ぱっと」「思ってること」を「切り取」ることに短歌は適している。
たとえば、介護で忙しく時間がとれないときでも、短歌ならうたうことができる。
すこし関係なくて、すこし関係あるのだけれど、わたしはよくアメリカの作家レイモンド・カーヴァーを思い出す。かれは、短編ばかり書いた。長編は書かなかった。かれは、ある時期まではブルーカラーであり、ある時期までは肉体労働者だった。そうしたかれの時間のとれない生活、しかもこどももいた生活のなかで、それでも時間を見つけて書いた彼の生活が短編作家としてのレイモンド・カーヴァーを用意したのではないかとおもうのだ。
なぜ、プロレタリア短歌というものがあるのか、なぜプロレタリア文学はたいてい〈短い〉のか、が、そう考えるとわかるような気がする。それは、〈短さ〉を選択したというよりは、生活が形式を選んだのだ(こんな問いを立ててもいい。なぜ志賀直哉は長編が書けて、芥川龍之介は短編ばかりだったのか。志賀直哉の暮らしと芥川龍之介の暮らしの〈格差〉)。
その意味で、短い形式としてのジャンルは、いつでもひとつの表現の民主化の道をきりひらいている。それはときに表現をめぐる階層差をうちくずす契機になるかもしれないから。
さいきん、川柳作家の川合大祐さんと電話しているときに「妄想幻聴かるた」について話した。ふたりでこれは、まるで、現代川柳じゃないかと、話し合った。ここにあるのは認識の根っこだと。ちょうど私は田島健一さんの句集『ただならぬぽ』を読みながら、ひとの経験の基底=古層についてかんがえていて、なんだかいろんなものが、リンクしていった。
かるた、という短い形式のジャンル。
ジャンルのなかをひとが出入りし、ゆきかっている。それは、長さや短さなどの形式のちがいによって、すこし、ひとの感じもまた、変わってくる。
かるた、という短い形式のジャンル。
ジャンルのなかをひとが出入りし、ゆきかっている。それは、長さや短さなどの形式のちがいによって、すこし、ひとの感じもまた、変わってくる。
ジャンル、ってなんなのだろう。だれが・どう・決めているのか。だれがなにを位置づけ、迎え入れ、追い出し、それがどうくつがえされたり、あらそわれたりしているのか。
夜のそんなに早くもない時間のなかで、わたしは電話を切った。
隙ねらい外へ出たがる母と猫三年暮らせばよく似てきたり 辻田早代美
(「ハートネットTV 介護百人一首2017 春編その一」NHK・2017年4月20日 放送)
2017年4月19日水曜日
続フシギな短詩103[加賀田優子]/柳本々々
おにぎりをつくるみたいにわたしたちされてできたのかもしれないね 加賀田優子
『大阪短歌チョップ2』のテーマ「集」に投稿された加賀田さんの一首。
以前、このフシギな短詩において、俵万智さんと岡野大嗣さんのサンドイッチの歌を主体性をめぐって考えたことがあるが、この歌においてもおもしろいのは、あたかも「おにぎり」という集合体過密物としての食べ物が象徴するように、四つの主体性がおにぎりをつくるようにぎゅっぎゅっと「集」められていることだ(サンドイッチは「重」ねられた食べ物であるのに対し、おにぎりは「集」められた食べ物だ)。主体性を箇条書きしてみよう。
ひとつめの主体性は、「Xがおにぎりをつくる」
ふたつめの主体性は、「わたしたちはされた」
みっつめの主体性は、「わたしたちはできた」
よっつめの主体性は、「~かもしれないねとわたしは思う」
これらよっつの主体性がおにぎりのように一首にまとめられたのがこの歌である。しかもそれらはすべて主体性のレベルがちがう。ひとくちずつ食べるごとに味覚が微妙に変化していくおにぎりのように(おにぎりとはどこからどう食べるかで具材への接近の仕方が変わり味が変わる空間的な食べ物だ)。
それではよっつの主体性の内実をみてみよう。ひとつめは、超越的な主体がおにぎりをつくっている。このXには、「神様」が入るかもしれないし「親」が入るかもしれないし「遺伝子」が入るかもしれないが、そのどれでもない。なにか、世界のずっと上にある、巨大な主体である。
その巨大な主体性から、ふたつめの、「された」「わたしたち」という、「わたしたち」の受動的な主体性に主体がおりてくる。能動→受動と主体の移行が起きた。
そしてみっつめの「できた」「わたしたち」への変化。「できた」という能動でも受動でもない、生まれてしまったという生成。能動→受動→生成。
そして最後、この歌の結語の「ね」という問いかけ・同意の終助詞。〈わたし〉は《能動→受動→生成》のみっつの主体変化を一首にまとめて〈あなた〉に同意を求めるという「主体性」をさいごにみせた。
こうしたよっつの主体性が〈それとなく〉込められた〈主体おにぎり〉の歌がこの歌だとおもう。だからテーマ「集」にぴったりの歌だ。これはレベルの異なる主体性が「凝集」された歌なのだから。
わたしは、かつて、サンドイッチとは、危機的な食べ物かもしれない、と述べた。サンドイッチはつねに分離の危険をはらむから。
しかし、おにぎりは、どうだろう。おにぎりは、そうかんたんには、分離しない。むしろ、できてしまったものが、分離できなくなってしまったことのほうが、問題なのだ。「されてできた」ものを引き受けなければならないことが。
おにぎりは。
おにぎりは、生成変化のふしぎを、引き受ける食べ物かもしれない。
たとえば、おにぎりの生成変化未満の歌。
鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい 木下龍也
(『大阪短歌チョップ2 メモリアルブック』2017年2月 所収)
2017年4月17日月曜日
続フシギな短詩102[まひろ]/柳本々々
あいうえおかきくけこさしすきでしたちつてとなにぬねえきいてるの まひろ
ひとはたくさんしゃべることができるはずなのに、なぜひとはそれでもなお〈短いことば〉を選択することがあるのだろう。
その意味で、《短》詩は、どこかで、〈不能性(ごめんできないんだ)〉の文学でもある。
まひろさんの短歌をみてみよう。この短歌で伝達したいことは、「すきでした」の5音のはずだが、それが「あいうえおかきくけこさしす」の日本語の五十音にまぎれてしまう。そのために〈相手がよくわからない〉状況に陥ってしまう。いちばん肝心な「すきでした」の「す」が、「すき」の《す》なのか、「さしすせそ」の《す》なのかが、わからないからだ。
しかし、語り手は、「ねえきいてるの」と最終的にいらだちをみせた。わからなくしてわざわざしゃべったのに、だ。そして、この「ねえきいてるの」の「ね」さえもふたたび「なにぬねの」にまぎれてしまう。
だからこの短歌にはみっつの不能性がある。「すきでした」と〈そのまま〉言えなかったこと。「すきでした」を五十音の勢いのなかに隠してしまったこと。そしてそれから先のあなたへの問いかけもその五十音の流れのなかでそのまま言ってしまったこと。
このまひろさんの歌にあらわれた不能性は、安福望さんの描く絵のなかの不能性にも少し似ているな、と思った。
たとえば最近安福さんはよく宇宙を描いている。NEW PURE+でのギャラリートークのときに、「なぜさいきん宇宙が多いんですか」と宇宙の絵に囲まれながらきいたら、これはたまたま手持ちの画材の組み合わせでそうなったということである。宇宙の色があったから、宇宙を描いた。しかし、宇宙の色はたくさん使わねばならない。だから宇宙の色ばかりそのうち買うようになりました。画材店でその色がなくなっていかないか心配しています、と。
裏では宇宙のために泥臭く四苦八苦している安福望がいたが、ここでたとえば宇宙をよくモチーフにするクリスチャン・ラッセンと安福望を比較してもいいかもしれない。
ラッセンの描く宇宙は、宇宙そのまま世界である。宇宙即世界。ラッセンの描く宇宙はためらいがないし限定されていない。のびやかすきるほどに伸びやかである。海と一体化し、イルミネーションにあふれ、そこでイルカやシャチがはしゃいでいる宇宙である。
この宇宙には不能性がない。こう言ってよければ、この宇宙には可能性しかないのだ。
だから、ラッセンの絵がスピリチュアリティと結びつきやすいのも納得ができる。それは、《無限》の象徴でもあるからだ。幸福のさいげんの無さ。「毎日ぜんぶできるんだ」の世界。
(絵:安福望。「安福望個展・詩と愛と光と風と暴力ときょうごめん行けないんだの世界」案内パンフレットの表紙から。)
しかし、安福望の宇宙は限定的である。それはラッセンの海=宇宙とは対照的に、ふちどられた池=宇宙である。桜に囲まれた池のような宇宙。その池におとなしく舟を浮かべた人間と熊がいる。かれらは、はしゃいでいない。宇宙もかれらもどことなく抑圧されているようにも、みえる。安福望の宇宙は、まひろさんの「すきでした」のようになにかにまぎれてしまった不能性でもある。なぜかれらには表情がないのだろう。かれらはこれからどこにゆくのだろう。かれらにできることはなにがあるのだろう。
そのとき、どうして安福さんが、個展に「きょうごめん行けないんだ」などというずいぶんとネガティブな展示タイトルをつけたかが少しわかったような気がした。ラッセンだったらもっとポジティブなタイトルをつけるだろう。「プレシャス ラブ」「ドルフィン フリーダム」「エンドレス ドリーム」の彼の作品タイトルのような。愛、自由、夢。
まひろさんの歌にみられたように〈きょうごめん行けないんだ性〉は短詩にそれとなく〈もともと〉胚胎しているのかもしれない。ことばのすきまにまぎれこむようなかたちで。
ギャラリートークで、安福望さんが、学校に行けなくなった話をしていたのがきょうみぶかかった。なんの理由もなくある日ふっと学校に行けなくなってしまった。「きょうごめん行けないんだ」になった。でもあるとき、1995年だが、とつぜん、「みんながきょうごめん行けないんだ」という状況になった。そのときになぜか不思議とふたたび学校に行けるようになった。ふっ、と。その理由がなぜかはわからないけれど、と。
まひろさんの短歌では、「ごめん言えないんだ」のなかでもきちんと「すきでした」と言うことは言えている。いろんなことが言えなくなる状況のなかで、ふっと、言えてしまったこと。
不能性のなかで、それまでなかった強い可能性がうまれる場合がある。
阪本順治監督の映画『顔』を、思い出した。
(『食器と食パンとペン わたしの好きな短歌』キノブックス・2015年 所収)
2017年4月14日金曜日
続フシギな短詩101[高屋窓秋]/柳本々々
頭の中で白い夏野となつてゐる 高屋窓秋
川名大さんがこの句の「白」に関して文化的側面からみた興味深い指摘をしている。
川名さんはこの句が生まれた昭和初期のモダン都市下の政治・文化情況を素描した上でその多面的情況としてのポジティブ・ネガティブどちらをも同時にあらわす色が「白」だったとつなげている。「『白』は純粋なもの、明るく輝くものなどのコードとして用いられる一方、空虚感や虚無感など負のコードとしても用いられた」。
円本ブーム・ラジオ放送・映画・レコード・デパートなどメディアを中心とする文化・芸術・娯楽などのモダンなポジティブな面。他方、三・一五事件(日本共産党弾圧)・世界恐慌による不況、就職難、農村の疲弊・治安維持法・満州事変・五・一五事件(犬養首相射殺)など政治経済のネガティブな面。こうした多面的なモダン都市の相貌を、小説家・詩人・歌人・俳人・川柳人たちは鋭敏な感性でとらえ、「白」や「青」として発光させた。
(川名大「高屋窓秋『白い夏野』」『挑発する俳句 癒す俳句』筑摩書房、2010年)
モダン都市にあふれる光やモダンな文化住宅の色として「白」は、関東大震災以後の新しい思潮や風俗としてのモダニズムを表すための象徴となる色だった。そしてそれは「小説家・詩人・歌人・俳人・川柳人」にまたがっていた。
白い住宅
白い
桃色の貴婦人
白い遠景
青い空 北園克衛
植物の感じがひじやうに白いから何もおもはずに眠らうとする 前川佐美雄
白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう 斎藤史
この短詩にあらわれた〈色〉を同時代の文化的状況と接続させる視点は、後の時代にくだっても有益かもしれない。
たとえばかつてこの「フシギな短詩」の「村上春樹」の回で取り上げた色の歌。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとラインマーカーまみれの聖書 穂村弘
(『ラインマーカーズ』小学館、2003年)
緑でも赤でも黄色でも茶色でも青でも黒でもない鬼 伊舎堂仁
(『新鋭短歌シリーズ18 トントングラム』書肆侃侃房、2014年)
赤青黄緑橙茶紫桃黒柳徹子の部屋着 木下龍也
(『きみを嫌いな奴はクズだよ』書肆侃侃房、2016年)
これらの歌には色がサイケデリックに叛乱しているのだが、「白」や「青」という〈単色〉がモダンをあらわす色だったならば、これらの〈色まみれ〉の歌は、そうしたモダンの状況が壊れ、ポストモダニズムとして価値観がばらばらになった文化状況の歌として読めるかもしれない。
モダンは合理性を、ポストモダンは非合理性を追求する。
「ラインマーカーまみれの聖書」は価値観が複雑化=多重化した人間の様相をあらわすだろうし、否定神学的にしか言い表せないような指摘不可能な色をもつ「鬼」はすでに「色」でなにかを象徴することが困難になったばらばらな時代を表すかもしれない。またそれを反転させた「徹子の部屋着」も同様に〈色のおびただしさ〉が逆説的に色のむなしさを描いている。
モダニズムが「頭の中」を「白い夏野」として単色であらわせるものだったとすれば、ポストモダニズム以降の短詩においては、〈色彩の叛乱〉という〈極彩色〉がわたしたちの「頭の中」をあらわしている。頭の中は極彩色の夏野となっているのだ。
しかし極彩色とは穂村さんの歌にいみじくも「きらきら」と書かれたようにそれは〈無色〉の〈光〉に近い。つまり、極彩色とはもしかしたら、なんの色でもないということかもしれない。ポストモダニズムが、なんの価値でもないことが、価値であったように。
光。現在のわたしたちは、光を、ある危機的な枠組みのなかで、意識しはじめているように思う。モダニズムの「白」は、光の明暗としての両義性があった。川名さんはそれを「溌剌とした発光と虚無的な発光」と呼んだ。しかし、いまのわたしたちにとって「光」とは、もう、溌剌さや虚無をも越えた《危機的》な発光である。
原子炉がこわれ泉は星だらけ 田島健一
(『ただならぬぽ』ふらんす堂、2017年)
(「高屋窓秋『白い夏野』」『挑発する俳句 癒す俳句』筑摩書房・2010年 所収)
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