-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
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2017年5月7日日曜日
続フシギな短詩108[榊陽子]/柳本々々
さあ我の虫酸を君に与えよう 榊陽子
きのうの「川柳トーク 瀬戸夏子は川柳を荒らすな」というイベントで小池正博さんがあげられた十句選のなかの一句。
小池さんはこの榊さんの句に表現されている〈悪意〉に着目した。
悪意。
「虫酸」というのは「胃から口へ出てくる酸っぱい液体」のことだ。ところがこの句では「さあ我の~を君に与えよう」というもっともらしい、高貴な文体のなかに「虫酸」を置くことで、低級なものを高級なものとして相手に贈与する。その低級なものを高級な文体のなかに据え置きながら相手に贈る行為を〈悪意〉とわれわれは呼んで、いい。
現代川柳を読み解くのに〈悪意〉はひとつのキーワードになる。いいえ。それどころか、〈悪意〉は川柳をマッピングするのに絶好のキーワードになる。社会川柳(サラリーマン川柳)と詩性川柳(文学川柳)をつなぐのが〈悪意〉なのである。
たとえば、こんな有名な女子会川柳。
カレよりも課長の夢をよく見てる
彼氏よりも課長の方が好きで課長の夢をよく見てしまう。これは「彼氏」への〈悪意〉である。あるいは、愛への悪意である。もしくは職場で課長と接する機会があまりに多く、課長が夢にまで出てきてしまう、そういう職場批評の句として詠むなら、職場への悪意である。
こんな有名なシルバー川柳。
誕生日ローソク吹いて立ちくらみ
誕生日にろうそくの火を吹き消すとシルバーなみずからの身体はその息のエネルギーでさえたえられずに「立ちくら」んでしまう。これは老いた自らのシルバーな身体への悪意である。
わたしたちは、サラリーマン川柳と詩性川柳をときどき別のものとして分断=棲み分けしようとしたがるが、しかし〈悪意〉というキーワードは、橋渡しになる。
今回のイベントもそうだったが、どういう枠組みやタームを用意するかで、マッピング=精神地図のありかたは変わってくる。どこから・だれが・どんなふうに見るか、で。
榊陽子さんの川柳における〈悪意〉はそのひとつの答えを提示してくれている。
小池さんは
たてがみを失ってからまた逢おう 小池正博
という句を紹介してから、榊さんの
たてがみが生えてきたから抜いている 榊陽子
という句を紹介した。これをわたしは小池正博句への〈悪意の連鎖〉としてみても面白いかもしれないと思う。「たてがみを失」うと「逢」えるのだが(たてがみを失え、去勢されろ、というのはそれ自体ひとつの悪意である)、しかしその「失」えるかもしれない機会そのものを榊句は解体してしまうのだ。「生えてきた」そばから「抜いて」しまうのだから。
去勢そのものを、去勢してしまうこと。悪意そのものを、悪意として解体すること。
新しい川柳とは、なんだろう。
それは地図を描くためのターム=鍵=ペンを手渡してくれることではないだろうか。榊陽子の川柳が新しいのは、その鍵をわたしてくれるからではないかとおもうのだ。
早春のごはんを作る事故現場 榊陽子
(「ユイイツムニ」『川柳サイド』私家本工房・2017年 所収)