2017年5月9日火曜日

続フシギな短詩109[ひとり静]/柳本々々(ウィローブック・ウィローブック)


  おじゃまにはならないポだと思います  ひとり静

先日のイベント「川柳トーク 瀬戸夏子は川柳を荒らすな」の十句選の一句でわたしは飯島章友さんの

  毎度おなじみ主体交換でございます  飯島章友

をあげたが、わたしは現代川柳ってこういうことなんじゃないかなと思っている。

「主体交換」という言葉だけだったら、それは思想的・哲学的な話題である。わたしたちはふだんの会話や電話で「主体交換」ということばを出さない。日常会話でそんなことばを使ったら、きらわれちゃうからだ。難解すぎる。「もしもし、あのね、主体交換がね」とは、言わない。

でも現代川柳はこうした哲学的言辞を〈あっさり〉使う。しかも、だ。「毎度おなじみ~でございます」という〈ちり紙交換〉の卑俗な言説のなかに〈それ〉を埋め込んでしまうのだ。

そうすると、それは、哲学や思想、でもなくなるかもしれない。というか、なんなのだこれは、ということになる。いったいこれはなにがおきているんです、と。

〈ちり紙交換〉的言説のなかに埋め込まれた哲学=思想。わたしたちは、なんだか、それくらいなら、理解できそうな気がする。もちろん、気がするだけだ。わたしにも、「毎度おなじみ主体交換でございます」と言われてもそれがなんなのかはわからない。毎回毎回「毎度おなじみ」のこととして「主体交換」されてしまう〈わたし〉。わたしは、あした、やぎもともともとでなく、やぎもととととになっているのかもしれないし、やぎもとぽぽぽになっているかもしれないし、やぎもとやぎもとになっているかもしれない、或いは、ウィローブック・ウィローブック(Willow-book willow-book)に。

ウィローブック・ウィローブック。

現代川柳は、わからなそうで・わかりそうなぎりぎりの〈認識の臨界〉を、描く。

長い遠回りをしてしまったが、ひとり静さんの句。

  おじゃまにはならないポだと思います  ひとり静

「おじゃまにはならない~だと思います」ならわたしたちにもわかる。たとえば、「おじゃまにはならない子だと思います」。これならふだん使うことばだ。電話口でも言える。しかし、そこに「ポ」がようしゃなく入ってきてしまった。この「ポ」は、きびしいし、はげしい。この「ポ」は思想的だし哲学的である。こんなところに「ポ」が入ってしまってはわれわれは対処しようがないではないか。しかし、〈ここ〉に「ポ」が入ってしまう。それが現代川柳だからだ。やっちゃいけないのに・やっちゃった、こと。それが現代川柳である。

この「ポ」は解釈しようがない。解釈しても意味がない。この「ポ」だけに着目しても意味がない。どういうことばのなかに、言説のなかに、「ポ」を埋め込んだか、埋め込まざるをえなかったが大事なのだ。その処理のしかた、手続きのしかたが現代川柳なのである。だから、川柳は解釈に入ってしまってはどこかで負けてしまう。仕組みそのものを描きださなければならない。わたしは今回瀬戸夏子さんの話をききながらそういうことを学んだ。仕組み、なんだと。両手でマイクを握りしめながら、わたしは、うなずく。

「わたしはポの研究者です」と言ったことがある。

しかし、いいえ、だから、現代川柳は、ずーっと、この「」の周囲を徘徊している。この、えいえんに、埋めることのできない「」に対処しようとして、なんびゃくなんまんの川柳人が、現代川柳をつくりつづけている。わたしはそうした〈ただならぬポ〉のフィールドから、安福望に呼ばれて、田島健一に呼ばれて、小池正博に瀬戸夏子に呼ばれて、この春、いろんな場所に、出かけていった。、の場所から、出かけていった。

          (『触光』42号、2015年6月号 所収)