鼻がかゆいのです なぜか
鼻がかゆいのです なぜか
気になって
気になって
演奏どころじゃない 三谷幸喜
三谷幸喜のミュージカル『オケピ!』からピアニストが歌っている部分を抜き出してみた。
ピアノの演奏中は鼻がかゆくてもかけない。しかし鼻がかゆい。どうすればいいのか。そのピアニストの悲しみや切なさを歌い上げている。
この『オケピ!』で興味深いのは、歌っているときは自分自身の心情を素直に打ち明けられることだ。つまり、歌っているときの言葉というのはすべてひとりの〈内面〉の言葉であり、他人には聞くことのできないモノローグだということになる。
ひとと話すときはふつうの言葉でしゃべり、ひとに話せないことは歌になっていく。こうした言葉の位相が、『オケピ!』には見られる。
ところがこの『オケピ!』が面白いのは、最終的にこうしたモノローグとしての歌だったはずの言葉の位相が劇が進行するにつれて〈全員〉の歌=言葉になっていくところだ。歌っているうちにひとりひとりの内面が混じり合っていくのだ。
『オケピ!』は最終的に、
たとえばどんな出来のよくないミュージカルにも
きっとあるさ みんなの好きなうた
そこにいることのしあわせ
歌のよろこび
と全員(みんな)の合唱で終わるのだが、この言葉の位相はもはやひとりの内面の位相なのか、みんなの内面の位相なのかわからない。舞台が進行するにつれて、登場人物たちの内面の位相が、〈ひとり〉から〈みんな〉に変わってゆく。それが「歌のよろこび」であり『オケピ!』なのである。
だから『オケピ!』のギミックとは、ひとが歌うときにチャンネルを変える意識のモードを仕掛けとして使っていることだ。ひとは歌をうたっているとき、意識のモードが違う。しかしその異なる意識のモードが、〈みんなの意識〉のモードになることがある。これが『オケピ!』なのだ。
歌うときにひとは意識のモードを変えること。
しかし考えてみればこれは短歌や俳句や川柳もそうではないだろうか。短歌や俳句や川柳はふだんの意識のチャンネルと〈ちがう〉ふうにしてうたわれているはずだ。
それはたとえば電話口でとつぜん短歌や俳句や川柳をそれとなくしゃべってみるとよい。「あれどうしたの?」となるはずだ。「どうした?」と。ふだんの意識のモードと違うはずだから。
うたうことと、〈なんかあった?〉には、関わりがある。
藤井貞和さんが『事典 哲学の木』の「うた」の項目で、「うた」うことによるモード・チェンジをこんなふうにえぐりだしている。
うたっているひとのしぐさを見ると、大口をあけ、紅潮した顔を人前にさらし、律動に身をゆだねて、もしうたっている動作だと知られない場合には、まったくどうかしている、と他人はあきれざるをえない。うたう行為だから、うわずる声も、異常な低音も、だいたい許可され、一般にははずかしいはずの絶叫や、からだをゆすってうっとりすることも、まあまあはずかしがらずにやれる。…うたう身体はそのような「われをわすれる」状態にある。
(藤井貞和「うた」『事典 哲学の木』講談社、2002年)
うたう、という行為はなんらかの、意識の、ことばの、モードを変化=変成させる(ここから古代の〈歌う合コン〉である歌垣文化を考えてみてもいい。参考「音で訪ねるニッポン時空旅「古代の合コン!?歌垣」NHKラジオ第2)。そしてそのモードの変成を探求するのに、ミュージカルはもってこいとも言える。いつ・うたいだすのか、なにを・うたいだすのか、だれに・うたいだすのか、なんのために・うたいだすのか、うたっているときに・なにが変わっているのか、うたったあとに・どう変わったのか、けっきょくそのひとにとって・うたとはなんだったのか。これらのモードの変成を教えてくれるのがミュージカルである。
そしてわたしは短歌や川柳や俳句は、その意味で、実は、ミュージカル的だと思うのだ。だって道を一緒に歩いているひとがとつぜん短歌を詠(うた)いだしたら、ど、どうしちゃったの、と言いますよね。ただその〈ミュージカル性〉を〈隠して〉成り立っているのも、また、短詩型文芸なのではないかと思うのだ。
なぜ、ひとは、うたうんだろう。そしてうたったあと、なぜ、真顔でまた暮らしをつづけるのだろう。
ずーっと、考えている。ずっとね。
ところで電話越しにうたってもバレない短歌・俳句・川柳というものが存在するだろうか? うたったあとに、うんそうだね、と相手がいってくれるような。いっしゅんたりともあなたが気づきさえもしなかったような。
もうお風呂の後、濡れた体でいつまでも歩き回らないよ。君の姪っこの誕生日には必ず電話を入れて、ミッキーマウスの声でハッピーバースデーを唄うよ
(三谷幸喜『オケピ!』白水社、2001年)
(『オケピ!』白水社・2001年 所収)