2017年5月22日月曜日

続フシギな短詩114[西尾勝彦]/柳本々々


  会合では
   こたつ主義とは何か
   理想のこたつ生活
   こたつと本
   こたつとコーヒー
   こたつとお茶
   こたつとみかん
   こたつと猫
   こたつと湯豆腐
   こたつとおでん
   こたつと音楽
  といった事柄について
  なにも
  話し合われず
  みんなで
  みかんを食べながら
  七ならべをして
  なんとなく
  過ごしていた  西尾勝彦「こたつ主義とは何か?」


詩とは、なんだろう。詩を読むにはどうしたらいいのだろう。

むずかしいもんだいだ。

詩には定型がない。だから定型から読むことはできない。しかし詩にはなんらかの〈カタチへの意志〉がある。詩はだらだら続かないからだ。〈始まりますよという意識と終わりますよという意識〉でパッケージングされたもの。それが、詩である。

だからどんな詩にも形式を欲望する〈くせ〉がある。

それが詩を読むヒントになるのではないだろうか。詩集から自分なりにあなたなりに〈くせ〉を発見してみるということ。

たとえば西尾勝彦さんの詩集を読んでいると、名詞が並んでいく風景に出会うことがある。上の「こたつ主義とは何か?」もそうだ。みてほしい。「こたつとX」というふうに「こたつ」を軸にしながらさまざまな名詞が「こたつ」と組み合わされていく。

ここでは〈こたつの可能性〉が検討されている。「こたつ」を軸にさまざまな〈こたつパラレル〉が繰り広げられる。これは語り手がそうした〈世界〉に住んでいるからだ。この詩の語り手は「こたつ」からパラレルワールドを〈そうしよう〉と思えばすぐに展開できる語り手である。

ところが、そうした「こたつ」をめぐる「事柄」は予想に反して「なにも/話し合われ」ない。これは「こたつ主義者の会合」なのに。語り手の予想に反して「こたつ」については「話し合われず」に「みんなで/なんとなく/過ご」すのだ。

ここで語り手は〈他者〉に出会っている。「こたつ主義者の会合」に参加した語り手は「こたつ」をめぐる世界を頭のなかで事細かに展開したが、しかしその「会合」は「こたつ」を展開しない、話し合わない、「こたつ主義者の会合」だったのだ。

つまり語り手は語り手自身が持っている〈世界のくせ〉とは違う〈世界のくせ〉を持つひとびとに「こたつ」を介して、いま、出会っている

〈世界のくせ〉がちがうひと。それは〈言葉のくせ〉がちがうひとたちと言ってもいい。そしてそういうひとたちを、わたしたちは、〈他者〉と呼んで、いい。

詩とは、そうした、〈言葉のくせ〉をもつ語り手が、〈言葉のくせ〉の違う他者と出会う空間なのではないか。

だから詩を読むとき、わたしはこう思うのだ。その詩のなかにある〈くせ〉を探してみようと。そうすると、〈くせ〉を介して、〈くせ〉がリンクしていくからと。それが詩をダイビングする行為なのではないか。

わたしは、詩とは〈言葉のくせ〉を発明することなのではないかと、思うのだ。 そして詩集においては、読者にむけて、言葉をめぐる〈くせ〉がたえず「光ったり眠ったりしている」のではないかと、思うのだ。その〈くせ〉を通して、わたしは、ことばに、もっと近づく。

  近づいてくる人は
  なぜか
  僕に
   小瓶の日本酒
   牛タンの佃煮
   児童文学書
   シーサーの置物
   文楽のチケット
   ビルケンシュトックのトートバッグ
   小さな詩集
   古いウイスキー
   くまモンのバッジ
  などを
  ほいと
  分けてくれます。
   (西尾勝彦「半笑い」)


          (「こたつ主義とは何か?」『光ったり眠ったりしているものたち』ブックロア・2017年 所収)