-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年5月17日水曜日
続フシギな短詩112[安福望]/柳本々々
季語の必要性ってずっとわかんなかったんですけど、俳句という場に死者をよみがえらせるための呪文のような、装置のようなものなのかなって 安福望
『きょうごめん行けないんだ』の「俳句」の項目で安福望さんが次のようにひとりで語っている。
この前東京でみた杉本博司さんの新しい劇場シリーズの写真をときどき思い出すんですけど、何回思い出してもなんかこわいんです。廃墟になった映画館で映画をながしてそれを杉本さんがいつもの方法で写真をとってんるですけど死んだ映画館を無理やり蘇らせてるのが死者を蘇らせてるように見えて。その杉本さんの写真がわたしにとって俳句のイメージだなって思いました。季語のの必要性ってずっとわかんなかったんですけど、俳句という場に死者をよみがえらせるための呪文のような、装置のようなものなのかなって思って、だから必要なんですよね。ないと俳句の場にならないんですよね。あたりまえですけど。死んだ映画館って生きてるひとには見えてないけど、ずっと映画がながれつづけていて、幽霊たちが見てんじゃないかなって思いました。だから杉本さんの写真、映ってないけど、死者がうつってるようなみえるような気がしました。
(安福望「俳句」『きょうごめん行けないんだ』食パンとペン、2017年)
安福さんが俳句を語るのは意外かもしれないが、安福さんは〈短歌的〉なひとなのではなく、〈俳句的〉なひとなのではないかとおもうことがある。
安福さんの絵をみていると、ひとや動物よりも〈場所〉が主体になっていることが多い。ときどき、まるでそこに仕方なく添えるしかなかったように、やむをえなかったんだよという感じでひとや動物がそっけなく〈場所に添えられている〉場合もある。
安福さんはほんとうは木がすきなのだという。木がとても好きなのだそうだ。木をひたすら集めたいとも言う。ただ〈それをやってしまう〉となんだかヤバい気がするので、そこをすこし〈よけている〉という。
たしかに、木ばかりの絵だと、とたんに安福さんの絵は荒涼としてくるだろう。私たちにとってひとや動物などの〈キャラクター〉はいつでも翻訳者である。その翻訳者たちが消えた世界はムコウの世界である。
安福さんの世界観の根底に、木ばかりの風景がある、というのをきいたときに、わたしはその風景をすこし〈俳句的〉にかんじた。ひとがいない風景。でもそれをみている〈ひと〉がいるしかない風景。この『きょうごめん行けないんだ』という本は〈会話辞典〉なのだけれど、この「俳句」の項目では会話はなされていない。安福さんがただひとりでしゃべり、しゃべり終えただけである。この「俳句」の項目には、誰も、いない。わたしも、なんにも、しゃべっていない。安福さんはいったい誰にむかってしゃべっていたのか。
ときどき、イラストとマンガの違いをかんがえるのだが、わたしはイラストとマンガの違いは〈マグカップに絵が載せられるかどうか〉なんじゃないかと考えている。毎日使用するマグカップに載せられるくらいの〈積極的そっけなさ〉がイラストなのだと。マンガだと情報量が濃密すぎて、毎日使うマグカップにそぐわないのだ。
そう考えたときに、そのイラストとマンガの違いはそのまま、俳句と川柳の差異にスライドできるんじゃないかという気もしてくる。イラストは俳句的で、マンガは川柳的という見方ができるんじゃないかと。
これもまたマグカップ理論とおなじで、過剰性の差である。イラストと俳句は過剰性から距離をおくことで成立しているが、一方、マンガと川柳は過剰性をさらに盛り込んでいくことで成立していく。
川柳人の渡辺隆夫さんはかつて、
俳句の読みとか川柳の読みなどから解放されて、普通の一般的な読み方が必要だ。そして、現代における一般的な読みとは、マンガ的読みということになる。
(渡辺隆夫「隣りは何をする人ぞ」『セレクション柳論』2009年、邑書林)
と述べたが、この「マンガ的読み」というものを今いちどそういう文脈で考え直すこともできる。たとえば、過剰な川柳に対しては、過剰な読みで対応=対抗しなければならないということ、など(逆に、俳句という形式にとって過剰な読みをした場合、どういう〈読みのしくじり〉が起きてしまうのかという問題も含めて)。
安福望の世界観の根底にあるらしい〈木の風景〉というものはこうしたさまざまな意外なリンクを考え(直)させるようにも、おもう。
ところで『きょうごめん行けないんだ』のいちばんはじめの「挨拶」の項目で安福さんが、
はじまったらおわりますもんね。
と言っているが、ほんとうに、そう思う。なんでもそうだが、はじまったら・おわる。どんなに緊張した場でも、吐き気がして卒倒しそうな場でも、とにかく、はじまったら・おわる。
はじめられさえすれば、おわるのだ。
要は、〈はじめられるか・どうか〉なのだ。〈そこに・そのとき・ちゃんといられるかどうか〉だ。そこに・そのとき・その自分がいられさえすれば、あとは、もう、はじまったら・おわる。だからどんな場所だって、だいじょうぶだ。ひとがしなければならないことは、そこにたどりつくこと、だけなのだ(ただし、そこにゆかねばならない。なにがなんでも。どんな手を尽くしても。でもゆきさえすれば、あとは勝手におわってくれるのだ。ほうけた顔で座っていても、だいじょうぶ。たぶん)。
どんなにそれが艱難辛苦の場所だって、はじまったら・おわる。それをわたしは勇気にしていこうと、おもう。
(「俳句」『きょうごめん行けないんだ』食パンとペン・2017年 所収)