-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
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2017年5月24日水曜日
続フシギな短詩117[新・幻聴妄想かるた]/柳本々々
能力ある流れ者のスターの僕に「ないない」とダンボールは言う 新・幻聴妄想かるた
ある日の電話から。
Y「もしもし、ああ、はい、やぎもとです。あっ、川柳作家の川合大祐さん。こんばんは。
ああ、そうなんです、さいきん、田島健一さんの感想をときどき書いていて。うーん、そうなんですよ、田島さんの俳句を考えているうちに、ことばにとっての〈違法行為〉ってなんなのかを考えざるをえなくなって。
それで、たぶん、ことばにとっての〈違法行為〉って名詞をいじくることだと思ったんですよね。「白鳥定食」とかね。あれは、やっちゃいけないことでしょう。「白鳥定食」っていうことばをふつうはつくっちゃいけない。それはヴィクター・フランケンシュタイン博士のしたことにも近い行為なんじゃないかと思う。操作しちゃいけないものをつぎはぎしてあってはならない生命をつくるような。
でもそのことによってわたしたちは〈ふれてはならない現実〉そのものを考えることもできるわけですよね。名詞をいじくることによって、世界のルールを変えてみることで、原〈現実〉をかいま見るっていうのかな。
えっ、新・幻聴妄想かるた? ああ、そういうのがあるんですね。ええ、無関係ではないと思います。
能力ある流れ者のスターの僕に「ないない」とダンボールは言う 新・幻聴妄想かるた
ああ、なるほど。こういうのなんですね。うんうん。たとえばこれなんかも「ダンボールは言う」と本来〈ひと〉しか持ってこられない名詞の部分に〈もの〉を持ってきているわけですよね。これもひとつの違法ですね。ただその違法行為が詩になったり〈現実〉に近づいたりしている。
あ、でも、そうそう、そうですよね。こういうのって現代川柳では常套な手段なわけですよね。
オルガンとすすきになって殴りあう 石部明
これなんかも〈ひと〉が本来的にはあるところに〈もの〉をつっこむという言語外科手術的な処置を施していますよね。でも現代川柳ってこれが〈ふつう〉の風景なわけですよね。
うーん、だから、なんて言えばいいんでしょうか、そういう精神医療的言説と現代川柳の親和性っていうのはあると思います。どうしてそんなことになったのかわからないんですが、たぶん現代川柳が語られるときによく持ち出されることば、「詩性」「暴力」などはここらへんと関係しているんじゃないかと思うんですよね。
つまり、本来的にはいじくってはいけない場所を現代川柳はいじくってしまう。だから、新・幻聴妄想かるたとも親和性をみせる。
バらバラだ時間も空間も 新・幻聴妄想かるた
これなんかは中村冨二の〈解体〉される去勢された風景を思い出すんですよ。中村冨二の句は、
パチンコ屋 オヤ 貴方にも影が無い 中村冨二
というふうに根っこの部分から解体されているでしょう。時間も空間も影も解体されてしまう。これはどういうことなんでしょうね。
チュルチュルピー小動物に演説する私 新・幻聴妄想かるた
ああ、そういう、モノに話しかける、語りかけていく世界というのも現代川柳的ですね。うーん、現代川柳はどうしてそんなことになったのかなあ。短歌には77というストッパーがあり、俳句には季語というストッパーがありますよね。そのストッパーが構造をつくってくれる。現代川柳のストッパーってなんだったんですかね。
私ね、小池正博さんがね、川柳は《断言の文体》なんだ、ってとつぜん断言されたときにすごくそれもまた川柳的だと思ったんです。断言って狂気じゃないですか。たとえば、わたしが「わたしはナポレオンです」っていうのは狂気ですね。「わたしはナポレオンかもしれない。ちがうかもしれない」だとまだ正気なんだけれども。
たしかに現代川柳って断言の文体が多いんですね。それは俳句の切れの文体とちょっと違いますね。短歌の伸びていく文体ともちょっと違うとおもう。断言の文体ってすごく意味が深い気がして。なんか断言っていうのがなあ。狂気の文体に近い気もして。でもこれはあんまりかんたんに言っちゃいけないんだけど。うーん。
川柳ってもともとは、題に対して「付」けるという付句のかたちだったわけですよね。ということは、なにかに応答する、答えることが川柳だったわけだけれど、〈答える〉ことって答え方によっては狂気になりますよね。不思議の国のアリスで、アリスに道をきかれたチェシャ猫は「こっちって、どっち?」と答えていますよね。なんかそれを思い出すんですよね。答えっていうのはときに狂気だぞって。
わたしはそういうのも含めてなかはられいこさんの句集『脱衣場のアリス』っていう「アリス」のタイトルは興味深いと思ってるんですよ。どうして現代川柳とアリスが突き合わされたのかっていうのは一度なんだかちゃんと考えた方がいい。
あのアリスが行った不思議の国は、くるっている、というよりは、言葉に忠実すぎるあまりに、文法的な正しさがくるっている世界なんですね。そこらへんもまた言語のいじくりと関連がふかいきもする。だからチェシャ猫はきいたんですよ。「こっちって、どっち?」って。言語的には「こっち」が「どっち」かわかりませんからね。それは行為ではわかりますけど、言語的にはわかりませんからね。こっちは、こっちでしかないから。だからチェシャ猫はくるっていない。《ことばを常軌を逸することなくつかえるにんげん》がくるっているんです。とワンダーランドは言っている。
でも、これもわたしの妄想なのかなあ。たぶんこんな話をすると、やぎもとはまた現代川柳をアブナい方向にもっていくんじゃないかって言われるんだろうな。でもなんだか現代川柳って一回そこらへんともつきあわせて考えてみた方がいいんじゃないだろうかっていうのが川合さんの『スロー・リバー』を読んだときちょっと思ったんですよ。なんだかあの句集で封じられていたパンドラの箱が開け放たれてしまったような気もして。
でも、かんちがいかもしれませんね。そうですね。夜も遅いし、そろそろ切ります。はい、わかりました。ええ、だいじょうぶですよ。それでは。はい。おやすみなさい。……」
(『新・幻聴妄想かるた』 所収)