2017年5月29日月曜日

続フシギな短詩121[新聞歌壇]/柳本々々


   明日は雨らしい大人をこじらせたことをしみじみ思う雨らしい  櫻井周太

連句を専門としている浅沼璞さんの『「超」連句入門』(東京文献センター、2000年)にチェーホフの連句性を指摘する話が出てくる。連句とは俳句をめぐる話だけでなく広く文化をめぐる話(「超」ジャンル)だというのだ。浅沼さんは山崎正和のこんな言葉を引いている。

  チェーホフの台詞は連歌でいう付句なんです。よくお読みになればわかるけど、論理的には繋がってないけど、気分で繋がってる。 この「気分」で繋がる感覚。

これだけ押さえても連句という「気分」で連なる「詩的な繋がり」がわかるのではないだろうか。たとえばこれはいろんなところに応用できる。ツイッターのタイムラインも〈あなたのアカウント〉のカラーがまとめあげた「気分」の連なりだろうし、2ちゃんねるのスレッドもそのスレッドのトピックの「気分」が各書き込みを「連」ねているだろう。

で、わたしはこうした連句的な〈詩的気分の連なり〉がとてもよく打ち出されているのが〈新聞歌壇〉という詩の場なのではないかと思う。これは私自身が実際に投稿し、毎週眼にしていくことでわかったものだ。 たとえば今日の毎日新聞・毎日歌壇の米川千嘉子欄をみてみよう。 特選歌は、

   明日は雨らしい大人をこじらせたことをしみじみ思う雨らしい  櫻井周太

である。このすぐ下の歌には、

   席立ちくれし青年わが前に揺れつつ読みつぐ「日本の未来」  越川伸子

と、「大人をこじらせたこと」が「青年わが前に揺れつつ」と、〈大人/こじらせ〉が〈青年/揺れ〉に〈青年期〉の「気分」として「連」なっていく。そしてその下、

   ゆるぎなき七十年の尊きを小庭(さにわ)のすずらん記念日に香る  堀青子 

と、今度は「日本の未来」が「ゆるぎなき七十年の尊き」と〈国と個人の時間幅〉の「気分」として「連」なっていくのだ。

となると、選者というのは、ただ「選」んでいるだけなのではない。あたかも連句の巻物をつくりあげるように、一首一首の歌を〈配置〉していくことで、〈現代の気分〉の連なりを〈連句〉として語っているのだとも、いえる。 

私たちは新聞歌壇で一首一首に出会っているわけではないのだ。選者が用意した「連句的連なり」としての〈現代の気分〉にたちあっているのである。

だから、新聞歌壇の選者は、現代の気分という〈作品〉の〈作者〉でもある

ときどき、〈気分〉とはなんだろう、と思うのだが、〈気分〉とは「連句的作用」によって立ち上がる〈なにか〉かもしれない。わたしたちは思いがけない連なりのなかで、連鎖のなかで、〈気分〉にたちあう。

ちなみに浅沼璞さんが自身の学生たちと行ったさいきんの学生の連句には次のようなものがある。

   あなたのラーメン探して台所に這ふ  真那美

   彼の前歯胸につまり  綾 
   (浅沼璞『俳句・連句REMIX』東京四季出版、2016年)

「あなたのラーメン」という〈同棲の気分〉が、「前歯胸に」という身体を過剰に「同」じくする〈性〉への〈気分〉へと連ねられていく。

だれかに連なると、わたしたちに「気分」が生まれる。からだも、ことばも。

わたしたちの「気分」というのはそのつど生まれた「作品」なのかもしれない。、どんな気分ですか?

   今の方がもっと彼を愛してる。この体が焼けつくくらい。どうしようもないくらいに彼を愛してる。ねえコースチャ、あの頃はよかったとは思わない? 人生のなにもかもがまっすぐで、あったかくて、むじゃきで、しあわせだった。なんだったのかしら。かれんで、繊細な花のようなあの感覚。覚えてるでしょう?
 (チェーホフ、木内宏昌訳『かもめ』)

          (「毎日歌壇」『毎日新聞』2017年5月29日 所収)