-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年5月25日木曜日
続フシギな短詩118[仲畑流万能川柳]/柳本々々
骨壺に入りたいかを考える 八重根隆
毎日新聞で毎日続いている「仲畑流万能川柳」からの一句。
TBSラジオ『爆笑問題カーボーイ』2017年5月23日放送で、爆笑問題の太田光さんと田中裕二さんが次のようにサラリーマン川柳を語っていた。
太田 カミさんの尻にしかれてる、みたいなことを言えばいいんだろみたいなさ。
田中 新人類的なものにビビってるパターンか、奥さん、子どもに虐げられてるパターン。
太田 部下とコミュニケーションできないみたいなのとか。あとスマホ使いこなせないとか。だいたいその辺やっとけばいいんだろみたいな。
(爆笑問題 太田光・田中裕二『爆笑問題カーボーイ』TBSラジオ、2017年5月23日放送)
爆笑問題の二人によって〈サラリーマン川柳〉がとてもわかりやすく語られているがここで私が興味深いと思うのは、「尻にしかれてる」「ビビってる」「虐げられてる」「コミュニケーションできない」「使いこなせない」という部分である。どれも〈できない〉という〈損なわれた主体〉が問題になっている。かんたんにいうと、ここに出てくるひとびとはみな、くじかれた、〈去勢〉されたひとびとであり、なにかができなかったひとたちである。
これは大枠としては〈サラリーマン川柳〉的な川柳を基調とする毎日新聞の連載「仲畑流万能川柳」から句を任意で抜き出してみてもわかる。
骨壺に入りたいかを考える 八重根隆
美味そうに見えたけどなあ犬のエサ ピロリ金太
悪いことしていないのに句ができぬ ひねのり
「骨壺に入りたいかを考える」終わりの主体(命の去勢)。犬のエサが「美味そうに見え」てしまう欲望の主体(人間の去勢)。悪いことはなんにもしていないのに「句ができ」ない挫折の主体(表現の去勢)。
サラリーマン川柳は少し難しい言葉でいえば、主体が去勢されたひとたちばかりなのだ。
現在の川柳には大きくわけてふたつの流れがある。ひとを笑わせる方向の社会派川柳(サラリーマン川柳、シルバー川柳、女子会川柳、オタク川柳)とひとを考えさせる方向の詩性川柳(現代川柳)である。
現代川柳は詩性川柳という〈ひとを笑わせない〉方向を取ったのだが、現代川柳でたびたび問題になるのは、詩性川柳とサラリーマン川柳の〈裂け目〉であり、〈分裂〉である。詩性川柳とサラリーマン川柳はたびたび〈違う〉ものであるように語られる。しかし、ほんとうに、そうなのか。それはわたしたちにそれをつなぐだけの〈接点〉や〈枠組み〉がなかっただけなのではないか。
たとえば現代川柳にこんな句がある。
たてがみを失ってからまた逢おう 小池正博
これは詩性川柳なのでひとを笑わせようとはしていない。髪が全部抜け落ちてからまた逢おうと解釈すれば笑えないこともないかもしれないが(私は笑わないけれど)、でももしそうだとしても「頭髪」が「たてがみ」と語られていることが重要だろう。笑わせるならば「頭髪を失ってからまた逢おう」でも、よい。
なぜ、「たてがみ」なのか。「たてがみ」は髪だけでなく、権威や父権、あらかじめあるプライド、動物性、など喩えとしてさまざまに機能するからである。さまざまに機能するということは、当然解釈もさまざまに生まれるわけで、多くの解釈を生む詩になっていくのだ。
この句を構造としてとらえた場合、〈主体の去勢〉の句にもなっている。〈たてがみを失う〉ということは、〈主体〉が〈去勢〉されるということでもある。その〈主体の去勢〉を通してはじめて「また逢おう」と語り手が肯定的に語れたのだとしたら、これは〈主体の去勢〉を構造的に受け止めた句になっている。
もちろんこれは私のひとつの解釈に過ぎないのだが、しかし現代川柳は〈去勢〉されるととつぜん元気まんまんになることは注意しておいて、いい。たとえば、
「けれども」がぼうぼうぼうと建っている 佐藤みさ子
「けれども」という去勢そのものが「ぼうぼうぼうと」勢いよく建っている。去勢そのものが男根化するというとんでもないダイナミックな風景だ。
爆笑問題が語っていた〈去勢〉をわたしたちは詩性川柳にも見いだすことができる。〈去勢〉という枠組みを適用すると、とりあえずは、サラリーマン川柳と詩性川柳をつなぐことができるし、実はそうかんたんに川柳というジャンルは分別できないかもしれないということがわかってくる。
〈去勢〉という枠組みの適用。
小池正博さんは、川柳のイベントで、現代川柳というジャンルは〈ジャンルの近代化〉に乗り損ねた、大岡信さんの「折々のうた」にさえ出てこなかった、と語られていたが、川柳というジャンルそのものが近代という時代を通して〈去勢〉されたというのは興味深いと私は思う。ただ、小池正博さんはそのイベントで〈去勢〉という枠組みは不満だと語られていたので、私の枠組みは恣意的なものだということを、ここに書いておく。この枠組みだと取りこぼされてしまうものを検証する必要があるし、心情的にも「あなたのよさは、くじけているところですね」というのは受け入れがたいものだと思う。
〈去勢〉という枠組みを適用すると、取りこぼしてしまうものがある。たとえば〈去勢〉はあくまでコンテンツの問題であるので、〈文体〉の問題を落としてしまう。先ほどの小池さんのたてがみ句で言えば、「逢おう」という〈文体のいさぎよさ〉をどうするのかという問題があるだろう。みさ子さんで言えば、「ぼうぼうぼうと」のような擬態・擬音語をどうするか、など。また、ジャンルの未来や共同性の問題もあるのかもしれない。去勢によって共同性がつくれるなどと言えたのは、〈分有〉の概念を提唱したジャン=リュック・ナンシーだけだったのではないか。わからないけれど。
わたしが〈去勢〉のヒントをもらったのは、NHKラジオ深夜便の頭木弘樹さんの「絶望名言を味わう」を聞いていたときだった。頭木さんはカフカを「絶望名人」と名付け、絶望から本を読み解く「絶望読書」を提唱しているが、そうした「絶望」という〈去勢〉から文化を揺り起こすことができるんだというのは私にとって新鮮な驚きだった。
また、もう一人、ヒントをくれたひとがいる。小林秀雄である。小林秀雄は、ドストエフスキーの感想を書くとしたら、ドストエフスキーが書いている以上のことを書いてはいけないと、〈書かない感想〉を提唱したが、たしかにひとは読んだ後、なにか感想を語らねばならない、ということに強迫的にさらされており、しかしその強迫的な感想(ひとは本を読んだら映画を見たらゲームをしたら感想を語らねばならない)をくじかせた点で新鮮だった。この問題については山城むつみさんの本がくわしい。
また、もう一人、ヒントをくれたひとがいる。川柳人の竹井紫乙である。私は昔、竹井紫乙の句集『白百合亭日常』の「あとがき」を書かせてもらったのだが、第一句集『ひよこ』第二句集『白百合亭日常』と続いて竹井紫乙は、〈去勢〉を迫ってくる川柳を描いてみせた。紫乙の川柳の語り手たちは、〈去勢される〉のではなく、〈去勢する〉ことを迫ってくる、のである。
階段で待っているから落ちて来て 竹井紫乙
率直に、階段を落ちてこい、と言っている。竹井紫乙の川柳には、〈おまえも去勢される勇気があるのか〉とこちらに迫ってくる力強さがある。
また、もう一人、ヒントをくれたひとが、いや、ヒントもらいすぎじゃないか。ここらへんで、やめよう。しっかりしないと。
「しっかりとして」しっかりとしてるのに 別人28号「仲畑流万能川柳」
(「仲畑流万能川柳」『毎日新聞』2017年5月9日 所収)