2017年5月22日月曜日

続フシギな短詩116[最果タヒ]/柳本々々


  きみに会わなくても、どこかにいるのだから、それでいい。
  みんながそれで、安心してしまう。
  水のように、春のように、きみの瞳がどこかにいる。
  会わなくても、どこかで、
  息をしている、希望や愛や、心臓をならしている、
  死ななくて、眠り、ときに起きて、表情を作る、
  テレビをみて、じっと、座ったり立ったりしている、
  きみが泣いているか、絶望か、そんなことは関係がない、  最果タヒ「彫刻刀の詩」


最果さんの詩の力強さに、〈ない〉の力強さがある。

たとえば上の詩だが、「きみに会わなくても」と〈会わない〉ことから始まっている。「会わなくても」「みんながそれで、安心してしまう」。「会わなくても、どこかで/息をしている」と〈会わない〉が繰り返される。

〈会わない風景〉のなかにおける「きみ」のことがめんめんと語られていく。〈会わない風景〉のなかできみは「希望や愛や、心臓をならしている」。そして〈死なない〉でいる。

この「死ななくて、眠り、ときに起きて、表情を作る」の「死ななくて」の〈ない〉が「きみ」の力強さの焦点になる。「きみ」は「生きて」ではない。「死ななくて」そこにいるのだ。息をしている。

最果さんの詩には〈ない〉が満ちているのだが、それが〈ない〉になっていかないことが強度になっていく。「死ななくて」は、〈いつでも死ねる〉状態だが、しかし〈いつでも死ねる状態にありながら・死なない〉で、生きているのが、「死ななくて」である。そうしたぎりぎりの生のなかで「きみ」は「息をしている」。が、「みんな」はそんな「きみ」に「会わなくても、どこかにいるのだから」と新しい〈ない〉を持ち出して「安心してしまう」。

だから、ほんとうはこの詩は「みんな」からは《なかったもの》にされている詩だ。「みんな」は「きみ」に「会わなくても」それで「安心」しているのだから。

でも、最果さんは詩によって《そのない》をひっぱりだす。会わない風景のなかで息をする「きみ」を安心している「みんな」につきつける。

そして〈ない〉のせめぎ合いを、用意する。〈会わない〉でいいと思う「みんな」と、〈死なない〉で息をしている「きみ」のせめぎあいを。詩として、かきだす。

「生きる」ことではなく、「死なない」ことをきみのたたかう価値として。いつどのしゅんかんにだって「死んでしまう」ことをたえず思いながらも、思い出させながらも、「死なない」ことを価値にする。〈ない〉ことを価値としてわすれなく、する。

  ぼくの最低な部分が湖のように、深いところで光って、中を泳ぐ魚たちが絶対に死なないことが、実は、ちょっとだけ好きだ。
  (最果タヒ「美術館」)

  死んでしまうことを不幸だと思うなら、生きていくこともできない。
  (「とあるCUTE」)

世界の〈ある〉ではなく〈ない〉をひっぱりだし、つきつけ、せめぎ合わせ、深める。世界のとんでもなく低い場所が、きゅうにふかくなる。でもそこに、ないきみがいて、死なないでいる

  なんて地獄なんでしょう。きみも私も地獄出身。生きていたらいいことあるよ。70億人と友達になれるし、ならなきゃずっと死ねないよ。
  (最果タヒ「雪」)


          (「彫刻刀の詩」『夜空はいつでも最高密度の青色だ』リトルモア・2016年 所収)