2015年5月5日火曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 11[芝不器男]/ 依光陽子



白藤や揺りやみしかばうすみどり 芝不器男

全て述べてしまわず、読み手が自由に想を広げられる席を空けておくことが大切な俳句という表現形態の中で、色を使う時には細心の注意を払う。出来ればそれを言わずに色が浮かんでくるのが理想とされ、なるべく安易に使わないようにしている。

中でも「うすみどり」には身構える。なんといっても先行する不器男の名句があり、他にも福永耕二に<子の蚊帳に妻ゐて妻もうすみどり>、現代では正木浩一に<芹といふことばのすでにうすみどり>などがある。前回採り上げた篠田悌二郎にも<暁やうまれて蟬のうすみどり>があった。

つい使いたくなる「うすみどり」だが、どれだけその「うすみどり」に必然性があるだろうか。そう考えたとき改めて掲句の秀逸さを思うのである。ここには作者の才気と眼光がある。

言わずもがなこの白藤は下り藤だろう。空気は動いているから大抵はわずかな揺らぎがある。さらに風が強まれば藤房は大きく振れ、少し遅れて藤の花の香りが降りて来る。そしてその香に陶酔する。そんな藤もピタリと静止する瞬間がある。

掲句の「うすみどり」はムードではない。一房の藤を凝視したリアルな「うすみどり」だと思う。白藤は珍しい。だから自然と白さに目を奪われる。しかし凝視を続けていくとそこに含まれる緑に気付く。白藤の幹に近い部分の、一粒の花の奥には緑が微かに残っている。もちろん山本健吉が『現代俳句』に書いたように、その頃の辺りの全体的な「うすみどり」と捉える解釈もあろう。茎も葉も緑であるから、遠目には白ではなく「うすみどり」に見えることは確かである。しかし、この白藤と作者との距離はもっと近い。揺れ止んだところに気付くには遠目では駄目だ。
全体感の「うすみどり」や、白に透けて見えた「うすみどり」であったなら、ここまで印象深い句とならなかっただろう。一房の藤に深く踏み込んだからこそ、作者の心が藤の花に乗り、読み手の心に触れるのだ。

不器男は書簡の中で「俳句にも主観がしらべによって波立っていなければならない」と書いている。掲句はこの精神が見事に昇華している。眼前の動から静、さらに内面的な動へ。「揺りやみしかばうすみどり」というゆるやかな調べによって不器男の主観の波が読み手に伝わる。

句集『不器男句集』は昭和9年刊。不器男の死後、吉岡禪寺洞選、横山白虹により編まれた。不器男23歳から死の前年27歳までの176句を収録。その12年後、石田波郷が復刻版を出す。「昭和に入ってからの物故俳人の中で現代俳句につながる作風の先駆として、先づ紹介したい作家は芝不器男であった(復刻版後記)」。さらに昭和45年に飴山実が『定本芝不器男句集』を出版。平成14年には生誕100年を記念し芝不器男新人賞が創設された。「俳壇に流星のごとく現はれて流星のごとくに去った(『不器男句集』序)」芝不器男の名は、今やその作品よりも名前の方が知られている作家であろう。名前だけが一人歩きしないように不器男の遺した作品に今一度目を向けたい。

下萌のいたくふまれて御開帳
白浪を一度かかげぬ海霞
ささがにの壁に凝る夜や弥生尽
人入つて門のこりたる暮春かな
卒業の兄と来てゐる堤かな
向日葵の蕋を見るとき海消えし
風鈴の空は荒星ばかりかな
蓑虫の鳥啄ばぬいのちかな
あなたなる夜雨の葛のあなたかな
枝つづきて青空に入る枯木かな
炭出すやさし入る日すぢ汚しつつ

(『不器男句集』昭和9年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)