2015年5月27日水曜日

 目はまるで手のように言葉に触れる 13[清原枴童]/ 依光陽子



ココア啜る夕顔の前の博士かな  清原枴童

夕顔の花は二つに分けられる。一つはウリ科ユウガオ属で実を干瓢とする正真正銘の夕顔の花。もう一つは朝顔と同じヒルガオ科サツマイモ属で正式にはヨルガオ。こちらは明治時代の初め頃に渡来し観賞用として栽培された。なぜかヨルガオではなく白花夕顔などという名称で売られている。今、夕顔の花と言えばこちらを想像する人の方が多いだろう。

前者は瓜の花らしく花弁がくしゃっと皺になっている。後者の花弁は皺なくつるんとしていて莟の時の襞が花にくっきりと残る。どちらも夕刻から緩みはじめ夜に咲く。いずれにしてもその白さは昼間に見るどんな花の白さよりも白い。


さて掲句はどちらの夕顔だろう。いずれにしても行燈仕立てで花を楽しむことができるようになっていると想像する。そういえば白洲正子にこんな随筆があった。夕顔に魅せられた白洲がその花の開く瞬間を見ようと一つの莟を何時間も見続けていたが、結局その莟は開かずに落ちてしまったというもの。掲句の人物もやはり夕顔の花を観ているのだろう。こちらはココアを啜りながら。さらに枴童は、この人物は「博士」だと言い添えている。「ココア啜る」というのんびりした雰囲気から、植物博士が花を観察しているのではなく、何か学術書でも読んでいてちょっと一服といった景だろうか。白洲正子といい『源氏物語』といい、夕顔の花からは女性を想像しがちだが、掲句からは男性の姿が見える。しかも夕顔の花に対しているあたり、なかなか渋い風体。きっと先の撥ねた口髭がある初老の男性で、実の容からうりざね顔だ。そんな風に想像してしまうのも面白い。


清原枴童は高濱虚子の『進むべき俳句の道』にも採り上げられている作者である。虚子は枴童の句<土砂降の夜の梁の燕かな><花深き戸に状受の静か哉><別れ路の水べを寒きとひこたへ><大炉燃えて山中の家城の如し>などの句を挙げ、「技巧の上に格段の長所が認められるばかりでなく、まだ小さく固まってしまわずに如何なる方面にも手足を延ばすことが出来るような自由さを持っている」と評している。

掲句の収められた清原枴童の第一句集『枴童句集』からは「格段の長所」というほどの技巧は感じ取れなかった。むしろ静かな佳句が並んでいると感じた。だが繰り返し読んでいると、人物を描いた句、或いは擬人化を取り入れたような句からじわじわと独特の味が出て来る。手堅い風景描写句だけにとどまらない温かみのある人物描写句の多さ。これが清原枴童のひろやかさだと気付いた。

土砂降の夜の梁の燕かな 
むつかれば梅に抱きゆきてほうらほうら 
夕立の脚車前草をはなれけり 
茄子買うてまた縫ものや祭前 
月ありと見ゆる雲あり湖の上 
燈籠の灯かげの雨のもつれけり 
芋虫のぶつくさと地にころげたる 
兄に怒る鎌や芒を刈り倒し 
夕風の野菊に見えて道遠し 
眉画くや湯ざめここちのほのかにも 
枯菊にあたり来し日をなつかしむ

(『枴童句集』昭和9年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)