兵の妻らの髪束凍る社かな
「土浦の日先(ひのさき)神社社殿には、千羽鶴とともに獣の尾の如きが幾つも垂れ」なる前書がある。この前書が凄まじいが、前書だけでは「獣の尾」が何を指すか分らない。句を読んで初めて、長い髪の束である事が判る。掲句は、句と同じほどの重さを持つ前書と影響し合って、情景の悲痛を抉っているのである。
大戦時、銃後の女性が夫の戦勝、生還を祈って、当時なら己が魂ともいえる髪を奉納したのであろう。髪の束は、少なくとも七十年は経っているか。掲句では、「兵の妻らの」とあるが、妻らだけではなく、母の、或いは姉妹の髪も混ざって垂れているかもしれぬ。それらの髪の主は、未だ存命の者も、とうに鬼籍に入った者もあろう。戦勝を祈願された兵らは、無事生還した者も、白木の箱にて無言の凱旋を遂げた者もあろう。
奉納された髪の主と再会できた兵は、果たして幾人いたであろうか。生き残った者には、戦後の様々な運命があっただろうが、それらの運命から切り離されて、髪の束は社殿に凍てている。
永い時を経て、獣の尾の如く変化した髪束は、あるいは吊られたまま、付喪神の如く、毎夜のたうっているかもしれぬ。戦地へと赴いた兵らの思いも渾然と融けている筈だ。
土浦の日先神社を調べると、近代以降、武運長久の神として信仰を集めたようだ。社に伝わる由来は、要約すれば次の如し。天喜5年(1057年)12月、源頼義、義家父子が奥州征伐の為、軍勢を引き連れて当地に到着。その夜、霊夢あり。義家の枕頭に神現われて「我汝を待つこと久し、今汝に力を添えん、必ず賊を平らげ名を天下に輝かさん」。源父子は、その地に賊徒平定の大祈願祭を厳修し、征奥を果たした。
土浦の日先神社が、平安期、東北地方を征服する契機の一つとなった土地に建つ社であれば、その社に奉納された髪束には、千年の戦の業と、戦に翻弄された女らの千年の悲嘆もまた溶け込むであろうか。
髪というものは非常に強靭で、角度によっては刃物さえも弾くという。そして、地中にあってさえ、なかなか腐らない。土葬の遺体の頭蓋骨に髪が長く残っている例は良くある。また、寺に奉納する釣鐘を引く綱に、髪を編み込む例もある。綱を強靭にする意図もあろうが、それよりも信心の念が籠るのである。
平安期、それから千年を経て昭和の大戦と、戦の因縁がまつわる社に奉げられた髪、戦において常に犠牲となる女たちの髪束が、「獣の尾の如き」であると関悦史が感じたなら、いつか獣は、尾の如き髪束より生ずるやもしれぬ。女らの、夫を、或いは子を、兄弟を奪われた悲嘆は、いつの日か幾つもの髪束の寄り集まりて多尾の霊獣を生ずるが如く、いや、願わくば霊獣と化して、戦争を喰らい尽くさんことを。
「遷移」(詩客2013年3月1日号)より。