道ばたは道をはげまし立葵 「呼鈴」
言葉の連環に何か違和感があるにせよ、一見、ヒューマニズムの匂いのする句に見える。誰も整備しなくて、だんだん荒れて来た道がある。山道と取るなら、もう人が通らなくなっているのだろう。野の道と取るなら、過疎化が進んでいるのであろう。町の道と取るなら、人心が、或いは行政が荒みつつあるのだろう。立葵が道ばたに生えている。道が道でなくなりつつある、その道の疲労を、道ばたの声を代弁するかのように咲いている立葵が感じているのである。立葵は道ばたという概念の具現化であり、作者の心情の暗喩でもあろう。なぜそのように読めるかというと、中七の終りが「はげます」と切れずに、「はげまし」と、微妙に下五の「立葵」につながるからである。この微妙な繋がりは、上五の「道ばた」が立葵へと変化してゆくような雰囲気を醸し出している。
と、解釈すると、中々良い話だ、と読み手は満足して終わるわけだが、ここで道というものの本質を考えてみよう。
道とは(獣道はここでは除く)、基本的に人がある地点からある地点へと楽に移動する為に作られるものである。人間の利便の為に作られるものであって、自然は別に道を歓迎しているわけではないし、道ばたは道の形成によって、道ばたという位置に追いやられるわけである。即ち、道とは人の営みであり、文明の誇りでもあるわけだが、同時に(大仰な言い方をするなら)、自然破壊の第一歩であり、人間の傲慢さでもあるわけだ。
例えば、殷の時代、中原は森であって象がいたという。今、中原には象などおらず、勿論、象が生息できる森も無かろう。何千年にも渡る絶えざる自然破壊、言い換えるなら、道に道を重ねるという行為が砂漠化を招来したのである。
道に象徴される人間の営みとは、自然にとっては傲慢以外の何ものでもなく、つまり、あらゆる人間は人間である限り、その本質において救い難く傲慢なのである。人間の文明、言語、芸術はその傲慢さの上に培われてきたのであって、そもそも傲慢でなければ、この狭い惑星に他の種を滅ぼしつつ七十億に至るまで繁殖する訳がない。
人間の傲慢さをどこまでも探ってゆくならば、例えば、仏教に謂う「三世の毒」である「貪、瞋、痴」の、痴にその根拠を求めることが出来るだろう。痴は漢訳であって、本来は「暗黒」の意を示すモーハである。モーハとは、生物が他を殺してでも生き残ろうとするような、盲目的な衝動を指すという。従って、傲慢さについて思いを馳せるなら、外界の様々な事象を観察し批判するよりも、先ず自らの内なる暗黒、モーハを観照すべく努めるべきであるか。それは取りも直さず、世界を自らの裡のものとして観照する事へとつながると言えば、幾ばくかの希望はあろうか。
更に、傲慢さというものが防衛本能に由来すると観察すれば、個々の人間の傲慢さの度合いについても考察できるであろう。人の傲慢さとは、その者の無意識に沈殿する恐怖の度合いに比例する。傲慢な者ほど、実は、或る大いなるものに糾弾される恐怖を抱いている。(聖性に満たされているわけでもない世俗の)人が、自らを「道」であり正義であると、傲慢にも称する真の理由は、その者が、人間にはどうにもならぬ大いなる何かに、遂に裁かれるであろう予感を、恐怖として感じているからである。その恐怖を打ち消すために傲慢にならざるを得ない、という切実にして憐れな内面を見る必要はあろう。
さて、掲句において、道という人間の傲慢さによって、道ばたという位置に追いやられた或る面積は、道を励ましている。立葵という道ばたの声は、道を励まし、ならばなぜ、励ますのだろう。
人間以外のあらゆる事物は、永遠の中でやがて衰え滅びゆくという運命を「盲目的に」受け入れ、掲句の場合は、道ばたは「道ばた」という位置に追いやられる運命を、「盲目的に」受け入れるからだろうか。
道が道という運命を全うし、道が道であり続ける意志を「盲目的に」使い切れば、後は(中原が遂に砂漠化するように)、道は簡単に滅び、「道ばた」は悠久の時を掛けて、道でも道ばたでも無いものに戻るからだろうか。
では、道ばたは早々に諦めているのか、或いは長い時を掛けて道が滅び、道ばたという位置から解放されることを期して雌伏しているのか。
なぜこんなにも、この句の解釈に手間取るかというと、冒頭に述べた如く、言葉の連環に違和感を感じるからだ。その捩れに、作者の醒めた眼差しが、巧妙に隠されているように思うからだ。
仮に、こうしてみたら、どうだろう。
道ばたを道は励まし立葵
こう変えた時の、なんとも言えない鼻白む感じは直ぐ分ると思う。「道」という人間の傲慢さが、「道ばた」という侵略され残された自然を励ますという構図の厭らしさ。高度成長期という、いけいけどんどんの時代、例えば光化学スモッグというものが登場し出した時代が孕んでいた無神経さとも通じるものがある。
そして、作者は、「道に励まされる道ばた」と認識したい人間の厭らしさ、人間が自然に対するときの「上から目線」の傲慢さを、(仮に意識下においてであれ)意識しているからこそ、敢えて道ばたに道を励まさせたのではないか。
それは「道」と「道ばた」の立場の逆転である。侵略されるものが侵略するものを励ますという、大いなる皮肉、惑星視点から見た時の人間に対する眼差し、といえば穿ち過ぎだろうか。
そうなると掲句において、最重要の位置にあるのは「立葵」である。立葵は道ばたに生え、道ばたの声を代弁するものであり、同時に季語であるから人間である作者の思いを代弁するものでもある。
立葵は、道ばたと道の、自然と人間とのあいだに有って、或る中立的な姿勢をもって立っている。それをシニカルな立場と言っても良かろうが、見方を変えれば、為す術もなく立ち尽くす姿勢であるともいえよう。ならば、立葵はせめて咲いていなければならぬ。
平成19年作。