2015年5月26日火曜日

1スクロールの詩歌  [波多野爽波 ] / 青山茂根 


  赤と青闘つてゐる夕焼かな    波多野爽波

 いわゆる童心にかえったような、ふと夕空を見上げたときに思い出してほほえんでしまう印象と、「闘う」という言葉に含まれた生存の厳しさを感じる句だが、なかなかどうして、描かれている内容から言葉をさかのぼっていく楽しさに満ちている。

これを、
  夜と昼闘つてゐる夕焼かな
と表現してしまうと、一見新しそうだが、観念的でもあり、意味内容を歪曲されやすく、句の世界は限定されて狭くなってしまう。他には何も語らずに色彩のみに託した空間の広がり、色にまつわる歴史的な背景などを含んだ原句に比べると、俳句としての大きさに欠ける句になることがわかるだろうか。ポエムっぽいという指摘もあるかもしれない。また、俳句表現としては、「夕焼」という季語に「夜と昼」の「闘っている」時間という概念がすでに含まれているので、当たり前な句、といえる(当たり前の事実をわざわざ描く、という俳句の手法もあるが、その場合は観念的表現にはしない)。

 「赤と青」とは、ゾロアスター教における「聖なる色」だという。「西域の民族は、天を青、地を赤で表現した。蒼穹と砂漠の色彩である。人間は天地の間にあって、その生命を永久に伝える存在である。」過酷な日中と砂漠の夜の静寂、そうした地へも夕空はつながっていることに思いを馳せる。
 また、「赤と青」は、フランス革命軍が帽章につけた色でもあり、フランス国旗はそれにブルボン王朝の象徴である白百合の色を足したもの、という説もある。「赤と青」は、一日の労働の後に夕空を見上げる市民の感慨を象徴した色でもあるだろう。

 『ひとつぶの宇宙 俳句と西洋芸術』(毬矢まりえ著 本阿弥書店 2015)では、この句にプルーストの自然描写と通い合うものがあると書かれている。文中から引くと、(プルーストは)

 例えば、夕暮れの空の色合いを登場人物に描写させて、次のように書いている。

(中略)「青といっても、大気の青よりは、とくに花の青に近い青、サイネリアの花の青ですが、おどろきますね、こんな色が空にあるとは。それに、あのばら色の小さな雲、あれもまたカーネーションとかあじさいとかいった花の色あいをもっていませんかね?(中略)夕方、しばらくのあいだ、青とばら色の天上の花束がほころびます。それはたとえようもないほどで、色があせるのにしばしば数時間もかかるのです。また他の花束は、すぐに花弁を散らせます。そしてそのとき、硫黄色やばら色の無数の花弁が四散する空の全体を仰ぐのも、また一段と美しいものです。」
(『ひとつぶの宇宙 俳句と西洋芸術』毬矢まりえ著 より)

 という文章を目にしたあとで、この句を夕空に思い浮かべると、また新たな広がりが感じられて、一日という時間の終わりが馥郁とした豊饒なものに変わっていく。様々な些末な日常茶飯事から開放された、自分ひとりの心の中のことではあるが。言葉の、俳句という魔法ならでは。

先の『ひとつぶの宇宙』にあげられている、色彩を含んだ句をいくつか。


アスパラガスほのむらさきと堀りあげし  小池文子
外套の裏は緋なりき明治の雪       山口青邨
手袋の黒と黒衣とただ黒き        山口誓子
しろたへの鞠のごとくに竈猫       飯田蛇笏
水に入るごとくに蚊帳をくぐりけり    三好達治