2015年5月11日月曜日

1スクロールの詩歌  [富澤赤黄男 ] / 青山茂根 



黒い手が でてきて 植物 をなでる   富澤赤黄男


 ここに書かれているのはこれだけ。一字空けの多用により一句中に休符が差し込まれ、絞り出す言葉のような、ほつほつと出る独語にも似た音としての効果。表記として分かち書きがこの句に空白の、何もない空間の怖さを与えている。一読、冷たい風に首筋を撫でられたような不気味さを感じるが、そのあとで慰藉ともいえる感覚が沸き起こる。

 この句が書かれた時代背景を考えていくと、「黒い手」は「黒い雨」からの連想、「植物」は、原爆投下後70年は何も生えないといわれた地に数カ月で草が芽吹き始めたことを含んでいるのかもしれない。そのようにも読めるし、また、これは赤黄男自身の姿とも読める。召集され戦地を経験した作者自身のいわば「汚れてしまった」「手」を、作者自身が描き、その精神的苦痛から立ち上がり自己を再生していく、作者自身の心のありよう。それは、復興へ向かう周囲の多くの人々の姿でもあり、当時の、混沌の中から立ち上がりゆく社会を見渡してのことでもあるだろう。胸の奥には消しきれない負の記憶を抱えながら。

 描かれているものが何か、は断定しきれないのが俳句であり、一読わかる俳句ばかりになってしまったら、俳句という土壌は痩せていくしかない。どの語が何を象徴しているか、ではなく、この句から受け取る世界は、悲劇と再生、それが人の手によって生み出されることの重さと柔らかさ、その大きな雲状の、時間軸を超えた概念に包まれる感覚だろう。様々な情景をフラッシュバックさせながら。

 たしかに、十七文字の表現を幾つも横に排列して垣根を結うような連作俳句は、さほどの苦労もなしに、常に何ごとかを吐露し得たごとき錯覚を生みやすい。しかし、それを無反省に継続すると、俳句形式によって言葉を鍛えるという俳人としての当然の修練と、そこから始まる方法への目覚めを、おのずから忘れてしまうのである。
  (中略)
 そのとき富澤赤黄男が信条としたものは、すべての作品は、その作品のみのもつリアリティによって完結しなければならず、作品以外のどのような条件や要素によっても、そのリアリティを決して保証されてはならないという、きわめて厳格な考え方であった。 

(「富澤赤黄男ノート」 高柳重信 )

玉ねぎが白くて風邪をひいてゐる
黄昏はなにかをだいてゐたいこころ
屋根屋根はをとこをみなと棲む三日月
ゆく船へ蟹はかひなき手をあぐる
蛇よぎる戦(いくさ)にあれしわがまなこ
鶏頭のやうな手をあげ死んでゆけり
雪晴れのひたすらあふれたり微笑
切株に 人語は遠くなりにけり
月光や まだゆれてゐる 絞首の縄
偶然の 蝙蝠傘が 倒れてゐる

(『富澤赤黄男全句集』 沖積社 H7所収)