2015年5月8日金曜日

今日の関悦史 2 /竹岡一郎




玉菜二個「われら死者のみにて生きん」  

慄然とするのは、中七下五の台詞部分である。この作者の場合、どこかからの引用ならば、必ずその旨を併記するから、この括弧書きの部分は作者の言であろう。ただ、括弧書きによって、作者の思いではなく、第三者の台詞という設定で書かれている。作者の脳裏に聞こえてきたのか、或いはどこか昏い彼方から聞こえてきたか、いずれにしても不思議な台詞である。

「われら」が死者を表わしているのなら冥府からの言であるし、「われら」が命ある者なら、この世のどこかで何か覚悟している者の台詞とも、或いは異次元からの台詞とも見えよう。

「生きん」というのが、ある決意或いは嘆きを表わしていると取るなら、これは作者の脳の深く、作者の無意識が認識し、決意し或いは嘆く台詞とも取れる。

この「われら」が死者であると同時に、生者でもあるという設定は可能だろうか。実は私は、その設定が一番現実味があるように思う。というのも、未だに繰り返す或る体験を私は思い出すからだ。
昼間、街中を歩いていて、大勢の行き交う人々の姿の間を歩き、過ぎ行く人々の顔を流し見ている内に、ふと彼等の顔に多くの顔が重なり、多くの者達の姿が重なって揺らぐことがある。そんなとき、私は、行き交う人々の存在の構造を見ているのだと気付く。

生きている者の顔に多くの死者達が重なり、死者達は多く断片であり、或る思いが凝り固まり特化したものであり、生きている者達が血肉と骨から出来ているのは当然だが、その血肉と骨という物質を動かしているのは「生者の心」であり、そしてその「生者の心」は実は多くの死者達の断片、様々に特化した思いから構成されているのだという認識が生ずる。

では、血肉と骨を伴って動くか否かを除いた場合、死者と生者の違いは何なのか。死者もかつては生きていたのだから、死者の心も生前は、多くの死者の心の断片から構成されていた筈だ。ならば、死者の心も生者の心も等しく、多くの凝り固まり特化した思いの断片が集合したものではないか。(ここで「思い」という語の定義を述べよと問われたら、刺激に反応して生ずる認識のパターンであると言おうか。)

例えば、数十年或いは百年または千年を耐えうる頑強さに固められた氷の歯車が、ある時は他の歯車と密接に絡み合って一つの機関を構成し、ある時は外れて他の機関に入り、その機関が自らを「単体の固有のもの」であるとして、外界を認識し思惟する。また、どの機関にも属さずに、ぽつねんと昏い片隅に回り続ける歯車もあろう。

ここで機関に喩えられるのは、生者の心であり、歯車とは死者の特化した思いである。恐らく、全ての歯車は、一定の悠久を耐えた後に、明らかなる光によって、水と融けるのであろうが、それはいつのことであろうか。

そこまで考えて、「われら死者のみにて生きん」とは、人間の心に対する、或る観照を、作者の無意識の直感が示しているとの思いに至るのだが、勿論、私の認識が単なる妄想であると一笑に付すのも有りだ。

上五の「玉菜二個」が良い。キャベツでも甘藍でも台無しである。

玉が魂に通じる事から、「玉菜」に魂の比喩を思い、キャベツが多くの葉が重なり玉形を構成していることを思うなら、それは魂の構成を示唆しているように思えてくる。(神道に「わけみたま」なる概念がある事をも思い出す。非常に簡単に言えば、魂は複写し分割する事が出来るという概念である。)

ここで改めて、中七下五の台詞を、玉菜の台詞として読む事も可能であると気付く。玉菜にそんな認識があるとは思えないから、そうなると、この玉菜は人間の象徴であり戯画であろう。
「二個」が惨くて良い。二個の方が、孤独を際立たせるからだ。人が孤独なのは、実は一人でいる時ではなく、二人でいる時であろう。人間は同じものを見ていても、各人の認識が必ず違う。だから、孤独を感じるのである。

 富澤赤黄男の「草二本だけ生えてゐる 時閒」を思うたびに、ジャコメッティの針のように細い彫像が浮かび、「草二本」は人間の孤独であろうと思い、ならば一文字の空白=沈黙を挟んで、「草二本だけ生えてゐる」と等価の如く置かれる「時閒」は、永遠に対比した時の、人間のまるで一点に過ぎないかのような生であろうと考えていた。

キャベツは多くの葉っぱ=草=断片が重なっている。重なっていても、やっぱり孤独なのだ。重なってキャベツという玉を構成する葉たちは、果たして互いを認識し合うことが出来ているだろうか。


「コッホ曲線」(ガニメデ第61号)より。