2014年11月13日木曜日

1スクロールの詩歌 [藤井雪兎] / 青山茂根         


自分の影に鍬振り下ろしている   藤井雪兎

 俳句における有季と定型とは、具象を抽象化するための仕掛けのようなもの、と自分では考えているのだが、

ときに客観写生や花鳥諷詠に拘泥し過ぎてそれを鎖のように身にまとったやせ衰えた姿になってしまってはいないか。

 一方で、自由律句、それも長律においてはむしろ具象としての描写が多いように思う。自由律句における境涯詠や、諧謔、社会性の具体的な描写は、現在ではより川柳の世界と近いものになっているようにも感じる。今日の伝統系の俳句ではあまり詠まれなくなったこれらの世界は、進化の過程で無くしてしまった器官のようで、それが私には羨ましい。きょうの句は、その具象であるがゆえに、普遍的な世界の一端を描き出していて。有季定型の全く別の作者の句に以下の例があることと比較してみたい。

「冬田打みづからの影深く打ち   藤井亘」

的確な描写による完成された句であり、定型俳句として評価される句であることは揺るがない。

が、きょうの句に掲げた「自分の影に鍬振り下ろしている」を目にしてみると、<冬田打>という語から、土の凍て、耕人の寒そうな様子、その気候の中での労働の厳しさといった要素がより印象に残り、人間の生きる業よりは風土詠としての感傷、その地に生きるものの矜持を感じる。自由律句のほうは、純粋に行為のみを描写しているために、影といいつつ自らの身を削り労働して生きていかねばならぬ人間の性がより浮き彫りになる。広大な世界の中のちっぽけな存在、といったアイロニーも含んで、具象に徹底することで、抽象的な読みの概念を引き出すような。有季および定型は、季語という要素と575という制限を与えられているがゆえに抽象化した描写が可能であり、抽象に季節感という要素が加わることでさらに飛躍した世界を表現することもある。たしかに具象のみの名句もあるが、それだけで留めてしまうには惜しい器であることを忘れずにいたい。


男かもしれない人と月を見ている  藤井雪兎 
この広い野原いっぱい咲く花から急いで逃げる  
ふたり海辺で裸足になっては何度も世界を滅ぼしてきた 
土下座の頭に蚊の止まる

             (自由律俳句誌「蘭鋳」)