按摩機にみる天井や湯ざめして 榮猿丸
地下を流れる水のように、かすかな虚無、というものがこの作者の句には含まれている気がして、熱狂するときも身体のどこかに醒めた視点がある、それが句を静かに屹立させている。
旅の仲間と楽しく寛いだ時間を過ごしたあとの、ふと一人になった瞬間に、はっと気づく天井から見られているような感覚、思わず見上げた羽目板の、照明の淡い陰影が、身ほとりのものとして皮膚に寄り添う。
すでに高度成長期を過ぎてゆっくりと失速しつつある現代に生まれたことへの諦念、とりたてて贅沢を望まなければ何不自由ない生活の一方で大きな未来が描けない社会の中で、しかし世界を否定したり、反感をあらわにするわけでもなく、淡々と物事を享受する、いわば早熟な子供の持つ冷徹な眼が、ずっと大人になっても機能している、(大人になってしまったら「ビニル傘ビニル失せたり春の浜」なんて気づかなくなってしまうのだ、ときにそれが予期せぬユーモアを生む)、それを纏める大人としての知性と形式による抑制、そんな句がこうして同時代に読めることをうれしく思う。
あをぞらを降るは刈られし羊の毛 榮猿丸
看板の未来図褪せぬ草いきれ
コインロッカー開けて別れや秋日さす
雪の教室壁一面に習字の書
(『点滅』2014ふらんす堂所収)