風船になつてゐる間も目をつむり 鴇田智哉
子供心に風船は祝祭の象徴のように思っていたが、犬の形をした(紙テープの四肢がある)散歩させて遊ぶ風船や金銀とりどりの巨大な風船など、近年の発達したものを見ていると、もはや「そのもの」にはさして意味はないのかもしれない、などとも思う。
掲句のものはごくごく普通の、人が息を吹き込んで膨らますゴム風船と捉えて読んだ。「風船になつてゐる間も」ということは、そうでない時も目をつむっている時がある、ということになる。そうでない時も、常に、という可能性もある。
風船になるってどういうことだ、という問題と、そうでない時も目をつむっている、ってどういうことだ、という問題、ふたつの問題が句のうちに内包されている。後者のほうがより重大なことに思われる。重大なことが、するりと語られてあとをひかないのが、この作者の特長なんじゃないかと思う。
ひなたなら鹿の形があてはまる
いきものは凧からのびてくる糸か
あふむけに泳げばうすれはじめたる
めまとひを帯びたる橋にさしかかる
人参を並べておけば分かるなり
鳥が目をひらき桜を食べてゐる
いつからか骨あるかほや雨の森
特に「ひなたなら鹿の形があてはまる」「あふむけに泳げばうすれはじめたる」「人参を並べておけば分かるなり」などの主格を欠いて提示されているように見える句の感触は、広瀨ちえみ、樋口由紀子、なかはられいこら川柳作家の作品の読後感になにやら近い。
このバスでいいのだろうか雪になる 広瀬ちえみ
ラムネ壜牛乳壜と割っていく 樋口由紀子
痛む箇所 線でつないでゆくと魚 なかはられいこ
これら川柳と掲句に共通するのは句の中で「何が行われているか」は明らかだが「なぜか」は明示されていない点である。5W1Hのなかの「What」と「How」だけが作り出す、具体的でありながらモーローとした世界がそこにある。
〈『凧と円柱』(ふらんす堂/2014)〉