淡雪やゴジラのつま先冷えにけり イイダアリコ
わたしたちは映画というメディア=視座を通していつもゴジラを俯瞰でみている。
でも、考えてみてほしい。わたしたちが現実で出会うゴジラはいつも「つま先」でしかないはずなのだ。だからもしあなたがゴジラに遭遇したとしても、それがゴジラかどうかはわからないのかもしれない。「つま先」しかみえないだろうから。
「淡雪」によって「ゴジラのつま先」が「冷え」ている。降っては消える「淡雪」のような明滅は、これまでゴジラが踏み潰し蕩尽してきたひとの生命の明滅にもつながっている。ずっとその「つま先」によってわたしたちのいのちが燃やされてきたのだ。わたしたちが相対していたのは〈ゴジラ〉という抽象物ではない。「ゴジラのつま先」という具対物だったのである。
しかも語り手はその「つま先」が「冷えにけり」と思いを寄せている。それはゴジラのつま先のことでもあり、もっといえばそのつま先に〈無意味に〉〈天災のように〉費やされたいのちでもある。
わたしたちは、わたしたちの〈これまでの/これからの祖先〉は、なんどもなんども命が蕩尽され、そこに淡雪がおちてゆく、「冷えにけり」な〈光景〉を眼にしたことがあるはずなのだ。
しかしなぜ語り手は「ゴジラのつま先」に気がついたのか。「ゴジラのつま先」に視線を向けることができたのか。
それは「淡雪」という季語を通してだ。
淡雪は、積もることなく、ふわふわ落ちては消えていく。つまり、淡雪の特徴とは〈消える〉ことであり、その〈消える場所そのもの〉に語り手の視線を必然的に向かせることにある。淡雪が降って落ちる〈上から下へ〉、そして淡雪が消えていく〈地表という場所そのもの〉に。
語り手はまず「ゴジラ」よりも「淡雪」が気になった。だからまず「淡雪や(淡雪だなあ)」と感動している。そしてその淡雪の下方ベクトルの明滅をとおして、「ゴジラのつま先」に気づく。
前回の北大路翼さんの句もそうだったのだが、季語は、視線を〈誘導〉する。そしてふだんとは違った見方の「ゴジラ」や「乳輪」を語り手に運んでくる。
わたしたちは俳句を通して〈初めてのゴジラ〉や〈初めての乳輪〉に出会う。
だとしたらそれを裏返してこういうふうに言うこともできるはずだ。
あなたが〈初めてのゴジラ〉や〈初めての乳輪〉を感じたしゅんかん、それは〈俳句のしゅんかん〉なのだと。
(「for Beautiful Nonhuman Life」『文芸すきま誌 別腹VOL.8』2015年5月 所収)