不健全図書を世に出しあたたかし 松本てふこ
「不健全図書」って、フシギな名詞だ。
《誰》にとって〈不健全〉なんだろう。
そもそも〈健全〉と〈不健全〉をわける境界線はなんだろう。だれが、それを決めるのだろう。
でも、語り手は、みずからが出版した「図書」が「不健全図書」だと理解している。そのラベリングを受け入れている。《受容》からこの句は始まっている。
もちろん、《隠す》こともできたはずだ。だが語り手はこの句をラベリングから始めた。隠すことなく。
「あたたかし」は春の季語だ。
でも考えてみよう。「あたたかい」という感覚は〈主観的〉なものであることを。だれが・どこで・だれと・どう感じるかで、あたたかさは、ちがう。
〈不健全〉も、そうだ。だれが・どこで・だれと・どうみるかで、たとえば〈全裸〉のありようも変わってくるだろう。北大路翼さんの句の「乳輪」の位相が俳句に置かれたことによって変わったように、問題はそれそのものにあるのではなく、それが置かれた位相にあるのだ。
「関さん」(御中虫)も、「乳輪」(北大路翼)も、「ゴジラのつま先」(イイダアリコ)も、俳句という空間のなかに置かれたことによって、その作用を変えた。俳句の位相によって。
だから、てふこさんのこの句の「不健全図書」も俳句の位相によって、その〈不健全さ〉を相対化するはずだ。
語り手は、そこに、俳句を通して〈あたたかさ〉を感じていたのだから。
てふこさんのこの連作には、
出頭の日時伝へてうららかに 松本てふこ
も、ある。それで、終わっている。
語り手は「不健全図書」の科(とが)で捕まるかもしれない。
でも、状況はシリアスではなく、「うららか」だ。「うららか」は晴れやかな季語だ。こころが晴れ晴れしいのが、わかる。なんのもんだいも、ないのだ。
「出頭」をするというのに、ここにはフシギな希望がある。語り手は、積極的不健全さを引き受けようとしている。
そのとき、季語は〈希語〉にもなっているのだ。
(「不健全図書」『週刊俳句』第52号・2008年4月20日 所収)